石黒御住職ご指導集 令和7年3月

1日

 

 方便品第二

 爾時世尊 従三昧

 安詳而起

 

その時に、世尊は無量義処三昧という深い瞑想から、真実の智慧をもって、ゆったりと厳かに起き上がり、

 

釈尊が無量義処三昧に入られて蓮華の花をふらし、眉間(みけん)から白毫(びゃくごう)の光を放たれたなどの六瑞を現わされ、それによって、文殊菩薩は弥勒菩薩にお釈迦様は法華経をお説きにならんとしておられるのでありますと、明らかに答えられた時に、お釈迦様は時いたれりとせられて、その時三昧からなんのわだかまりもなく、ゆるやかに起ち上がり、

 

無量義処三昧(むりょうぎしょざんまい)とは?

 

無量義処三昧とは、仏教の深い瞑想の境地の一つで、特に法華経の前提となる「無量義経」に関連しています。簡単に言うと、 「あらゆる法(真理)の根本を深く観じ、悟るための瞑想」 のことです。

 

1. 「無量義」とは?

 

「無量義」とは、 一つの真理から無限の教えが生まれる ことを意味します。

例えば、太陽はひとつですが、その光がさまざまなものを照らし、すべての生命に影響を与えるように、仏の教えも一つの根本法から無限に展開し、あらゆる人々を導くことができるという考え方です。

 

2. 「処」とは?

 

「処」とは、 その悟りの境地にとどまること を指します。

つまり、無量義という仏の深い智慧を理解し、それに常に根ざして生きることを意味します。

 

3. 「三昧」とは?

 

「三昧(ざんまい)」とは、 心を一点に集中し、深い境地に入ること を指します。

瞑想や修行によって、仏の悟りの世界に入り、真理を直接体験することができます。

 

4. 無量義処三昧の意味と実践

 

無量義処三昧とは、 無量義という仏の智慧を深く観じ、それにとどまり、集中して悟りを得る境地 のことです。

これは、単なる知識ではなく、実際の修行を通じて体験するものです。

 

具体的には、法華経の修行や唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)を通じて、私たちは仏の智慧と一体になり、迷いや苦しみを乗り越える力を得る ことができます。

 

5. まとめ

      「無量義処三昧」とは?

→ 仏の深い智慧(無量義)を悟り、その境地にとどまるための瞑想や修行。

      どうすれば実践できる?

→ 法華経の教えを学び、唱題や修行を通じて仏の智慧を体験する。

      何が得られる?

→ 迷いや苦しみを超え、人生を正しく導く力と安らぎを得る。

 

無量義処三昧は、単なる知識ではなく、実践を通じて体験するもの です。日々の信仰を大切にしながら、この境地を目指していきましょう。

 

2日

 

 世尊

 

**仏の十号(じゅうごう)**とは、仏の素晴らしい特性を表す10の称号のことです。仏は単に「悟った人」というだけでなく、さまざまな面で偉大な存在であることを示しています。

 

仏の十号(10の称号)とその意味

 1. 如来(にょらい)

         「真理(仏の悟りの世界)からこの世に来た人」という意味。

         仏が迷いの世界に現れ、衆生を導くことを示す。

 2. 応供(おうぐ)

         「供養を受けるのにふさわしい存在」。

         仏は煩悩を完全に断ち切り、最高の悟りを開いたため、人々が供養するのに値する存在である。

 3. 正遍知(しょうへんち)

         「正しくすべてを知る者」。

         仏は偏りなく、すべてのものの本質を正しく理解している。

 4. 明行足(みょうぎょうそく)

         「智慧(明)と修行(行)を完全に備えた者」。

         仏は智慧も行いも究極の境地に達している。

 5. 善逝(ぜんぜい)

         「最高の境地へ至った者」。

         迷いの世界を離れ、涅槃に至ったことを表す。

 6. 世間解(せけんげ)

         「世の中の真理を完全に理解している者」。

         世の中の苦しみや人々の心を知り、最善の教えを説くことができる。

 7. 無上士(むじょうし)

         「この上なく優れた者」。

         仏はどんな聖者や賢者よりも優れた存在である。

 8. 調御丈夫(ちょうごじょうぶ)

         「人々を調え、導く最高の師」。

         乱れた心を持つ人々を、最適な方法で正しく導く。

 9. 天人師(てんにんし)

         「天界や人間界の最高の師」。

         人間だけでなく、神々にとっても仏は最高の先生である。

 10. 仏世尊(ぶっせそん)

 

      「悟りを開いた尊い方」。

      仏は尊敬されるべき偉大な存在である。

 

まとめ

 

仏の十号は、仏の特性を示す10の称号で、仏が「最高の悟りを得て、人々を導く存在」であることを表しています。

特に、「智慧を持ち、最高の境地に至り、世の中を理解し、人々...

 

3日

 

 **法華経 方便品(ほうべんぼん)の「安詳(あんじょう)」**とは、釈迦が説法を始める前の落ち着いた静かな状態を指します。

 

「安詳」について

 

「安詳」とは、心が穏やかで落ち着いており、ゆったりとした様子を表す言葉です。

 

法華経 方便品の冒頭では、釈迦が前の無量義経の説法を終え、**深い禅定(瞑想)**に入り、そこから光を放つ場面が描かれています。この静寂で荘厳な雰囲気の中で、仏がどっしりと安らかに座し、法を説く準備を整えた様子を「安詳」と表現します。

 

「安詳」の意義

 1. 仏の落ち着きと威厳

         釈迦が揺るぎない悟りの境地にあり、完全な安定した心であることを示す。

 2. 法華経の深遠さを強調

         これまでの教えとは異なり、法華経が最も重要な真実の教えであるため、仏が慎重かつ荘厳に説法を始めようとしていることを表す。

 3. 聞く側(衆生)の心構え

         仏が落ち着いて説法を始めることで、弟子たちや菩薩も心を整え、静かに教えを受け入れる準備をする。

 

まとめ

 

**「安詳」**とは、釈迦が落ち着き、静かに深い瞑想の境地から説法を始めようとする状態を表す言葉です。これは、法華経が最も重要な教えであることを示唆し、説法の荘厳な雰囲気を醸し出しています。

 

4日

 

 告舎利弗(ごうしゃりほつ)

 

舎利弗に告げたまわく

 

舎利弗(シャーリプトラ)は『法華経』において非常に重要な役割を果たします。彼は釈迦の十大弟子の一人で、「智慧第一」と称えられるほど優れた知恵を持つ僧です。

 

『法華経』では、舎利弗が最初に「仏がなぜ巧みな方法(方便)を使って教えを説くのか」を質問することで、法華経の核心である「一仏乗」の教えが展開されるきっかけを作ります。「一仏乗」とは、すべての人が最終的には仏になれるという教えです。

 

特に「方便品(第二)」では、釈迦が舎利弗に対して「真実の教えを説く時が来た」と告げ、「三乗(声聞・縁覚・菩薩)という区別は仮のものであり、すべての衆生が仏となる道を歩んでいる」と説きます。また、「授記品(第六)」では、舎利弗自身も未来に仏となることを予言され、「華光如来」となることが告げられます。これは、智慧第一の舎利弗でさえも仏の真意を完全には理解できていなかったが、最終的には仏になる道を確約されたことを示しています。

 

要するに、舎利弗は『法華経』において、仏の深い教えを引き出す重要な役割を果たし、また「すべての人が仏になれる」という教えの象徴的な存在として描かれています。

 

5日

 

 諸仏智慧 甚深無量

 

諸仏の智慧は、甚深無量なり。

 

あらゆる仏が有する真実の智慧は、はるかに深遠であって無量である。

 

「諸仏の智慧は甚深無量なり」という言葉は、『法華経』方便品第二の中に出てくる大切な一節です。

 

簡単に言うと、「仏の智慧(さとりの知恵)は、とても深くて計り知れない」という意味です。

 

仏の智慧は、普通の人間の知恵とは比べものにならないほど広く深いものであり、すべての真理を知り尽くしています。そのため、仏は人々を救うために、それぞれの理解に合わせた教え(方便)を説くのです。

 

たとえば、子どもに難しい数学をいきなり教えても理解できません。まずは簡単な算数から教えて、少しずつレベルを上げるようにします。同じように、仏も人々の能力に応じて異なる教えを説きますが、その根本にある仏の智慧は非常に深く無限である、ということを表しています。

 

この言葉は、「仏の真の教えはとても深いが、それを理解するために段階的に学んでいくことが大切」というメッセージを含んでいます。

 

6日

 

 其智慧門 難解難入

 

「其の智慧の門は難解にして難入なり」

 

その智慧の門は、実に難解てあって入りがたい。

 

法華経の方便品(第二)の一節にある「其の智慧の門は難解にして難入なり」という言葉は、仏の智慧に至る道が非常に深く、簡単には理解できず、入りがたいものであることを示しています。

 

仏が悟った真理(仏の智慧)は、とても奥深く、一度聞いただけではすぐに理解できません。また、その智慧の世界に入るには、自分の考えや執着を超えた広い心が必要であり、それが簡単ではない、ということを意味しています。

 

なぜ「難解難入」なのか?

 1. 深い真理だから

         仏の教えは、人間の普通の考え方(常識)とは違う部分が多く、一見すると矛盾しているように思えたり、逆説的に感じたりすることがあります。

         例えば、「すべてのものは変わる(無常)」という教えを頭では理解できても、実際にそれを受け入れて生きるのは難しいものです。

 2. 自分の執着や固定観念が邪魔をするから

         人間は、自分の考えや価値観にとらわれがちで、仏の教えを素直に受け入れるのが難しいことがあります。

         たとえば、「幸せになるにはお金や地位が必要だ」と思っている人に、「本当の幸せは心のあり方による」と説いても、すぐには納得できません。

 3. 修行や努力が必要だから

         仏の智慧を理解し、その境地に達するには、聞くだけではなく、実際に修行し、努力を重ねることが必要です。

         これはスポーツや楽器の習得と同じで、知識として知っているだけでは意味がなく、実際に行動して経験することが大切なのです。

 

どうすれば仏の智慧に近づけるのか?

 

「難解難入」だからといって、決して不可能ではありません。大事なのは、少しずつでも学び、実践することです。

      素直な心で教えを聞く(先入観を捨てる)

      実際に実践する(小さなことからでも行動する)

      続ける(すぐに理解できなくても、あきらめずに学び続ける)

 

このように努力することで、少しずつ仏の智慧の門が開かれ、理解が深まっていくのです。

 

7日

 

 一切の声聞

 

すべての声聞

 

「一切の声聞」について、わかりやすく解説

 

法華経の方便品に出てくる「一切の声聞(しょうもん)」とは、仏教の修行者の一つのタイプを指します。特に、仏の教えを聞いて理解し、自分自身の悟りを求める人たちのことです。

 

「声聞」とは?

 

「声聞」という言葉は、**「声(仏の教え)を聞いて、悟りを得ようとする人」**という意味があります。具体的には、仏の教えを学び、四諦(したい)という基本的な教えに従って修行する人たちのことを指します。

 

四諦とは?

 

四諦とは、お釈迦様が説いた基本的な真理です。

 1. 苦諦(くたい):人生には苦しみがある(生老病死など)。

 2. 集諦(じったい):苦しみには原因がある(欲望や執着)。

 3. 滅諦(めったい):その原因をなくせば、苦しみもなくなる(悟りの境地)。

 4. 道諦(どうたい):苦しみをなくす方法がある(八正道という修行の道)。

 

「一切の声聞」は何を意味するのか?

 

法華経では、「一切の声聞」という表現が使われていますが、これは すべての声聞たち という意味です。

つまり、仏の教えを聞いて学ぶ修行者たち全員を指します。

 

しかし、法華経では、声聞の悟りはまだ完全ではないと説かれています。なぜなら、彼らは「自分の悟り」だけを求めていて、仏の本当の目的である「すべての人を救うこと」に気づいていないからです。

 

法華経における「声聞」の位置づけ

 

法華経では、声聞も最終的には大乗仏教(すべての人を救う教え)に導かれ、「仏になる道」に進むと説かれています。つまり、最初は「自分のために学ぶ」声聞であっても、最終的には「すべての人を救う菩薩の道」に進むのが本当の成長だ、という考え方です。

 

まとめ:簡単に言うと…

      声聞とは? 仏の教えを聞いて、自分の悟りを求める修行者。

      「一切の声聞」とは? すべての声聞たちを指す。

      法華経の立場では? 声聞の悟りはまだ途中で、最終的には「すべての人を救う道」に進むことが大切だと説いている。

 

法華経は「すべての人が仏になれる」という教えなので、声聞たちも最終的には「仏の道」に進んでいくと示されているのです。

 

8日

 

 辟支仏(ひゃくしぶつ)

 

法華経方便品に出てくる「辟支仏(ひゃくしぶつ)」とは、自分ひとりで悟りを開く修行者のこと・縁覚を指します。仏教の修行者にはいくつかの種類があり、その中でも「声聞(しょうもん)」とは少し違う特徴を持っています。

 

辟支仏とは?

      仏の教え(声)を聞いて悟る「声聞」と違い、辟支仏は仏の教えがなくても、世の中の真理を自分で悟るとされています。

      ただし、仏教では**「他人を導く力はまだ十分でない」**と考えられ、菩薩や仏と比べると、あくまで個人的な悟りにとどまるとされています。

 

どんな特徴があるの?

 1. ひとりで悟る

         辟支仏は、仏が世の中にいない時代(無仏の時代)に生まれ、仏の教えがなくても自然の道理を観察して悟りを開くとされます。

         例えば、春になれば花が咲き、秋になれば葉が落ちる。これを見て、「すべてのものは移り変わる(無常)」と気づき、悟りに至るのが辟支仏の特徴です。

 2. あまり教えを説かない

         声聞(しょうもん)は仏の教えを聞いて学び、他人にも教えることがありますが、辟支仏は基本的に自分だけで修行し、他人に教えることはほとんどないとされます。

         そのため、「孤独な悟り」とも言われます。

 3. 仏や菩薩と比べると、悟りのレベルがまだ不完全

         辟支仏は自分の悟りには達しますが、人々を広く救うことはしません。

         法華経では「最終的にはもっと大きな悟り(仏の道)へ進むべきだ」と説かれています。

 

法華経における辟支仏の位置づけ

 

法華経では、声聞や辟支仏の悟りはまだ途中段階であり、最終的には「菩薩の道(他人を救う道)」に進み、やがて仏となるべきだと説かれています。

 

つまり、

      声聞 仏の教えを聞いて悟る

      辟支仏 仏の教えなしでひとりで悟る

      菩薩 もっと大きな慈悲を持ち、他の人を救うために悟りを求める

 

最終的には、すべての人が「仏の道」に進むことが大切だとされています。

 

まとめ:簡単に言うと…

      辟支仏とは? 仏の教えがなくても、自然の道理を見て悟る修行者。

      どんな特徴がある? ひとりで悟るが、他人に教えないため「孤独な悟り」と言われる。

      法華経ではどう考えられる? 自分の悟りだけでは不十分で、最終的には「他の人を救う菩薩の道」に進むべきとされる。

 

法華経の教えは、「最終的にはすべての人が仏になれる」というものなので、辟支仏もさらに成長して、より大きな悟りへと進むことが重要だと説かれています。

 

声聞と辟支仏(縁覚)

二乗といい。

法華経において、"二乗作仏"が初めて説かれる。

法華経の二意(にい)の一つ。[ココ大事❗️

 

9日

 

 「所不能知(しょふのうち)」をわかりやすく解説

 

法華経の方便品に出てくる**「所不能知」**とは、仏の智慧(ちえ)は非常に深く広いため、普通の人や修行者では理解できない領域があるという意味です。

 

「所不能知」の意味

 

「所(ところ)」= 事柄や領域

「不能(ふのう)」= できない

「知(ち)」= 知ること、理解すること

 

つまり、**「知ることができない領域」**という意味になります。

 

これは、仏の悟りや智慧があまりにも深いため、普通の人や修行者(声聞・辟支仏)では完全に理解することができないということを表しています。

 

なぜ仏の智慧は理解できないのか?

 

仏の智慧(悟りの境地)は、単なる知識ではなく、すべての人の心や宇宙の真理を完全に見通した智慧です。

 

しかし、一般の人や、修行中の声聞・辟支仏は、まだ執着や固定観念にとらわれているため、仏の智慧を完全に理解することができません。

 

例えば…

1:先生と生徒の関係

 – 小学生が大学の数学を理解できないように、まだ修行の途中の人が仏の深い智慧を知るのは難しい。

 

2:海の深さと魚

 – 魚は水の中を泳いでいるが、海の本当の広さや深さを理解することはできない。仏の智慧は海のように深く、普通の人ではその全貌がわからない。

 

「所不能知」はどういう意味を持つのか?

 1. 仏の悟りは、普通の人には計り知れないほど深い

         声聞や辟支仏のような修行者でも、仏の本当の智慧は完全には理解できない。

 2. しかし、修行を続ければ少しずつ理解できるようになる

         最初はわからなくても、修行を積み、仏の教えを実践していけば、少しずつ仏の智慧に近づくことができる。

 3. だからこそ、仏の教えを信じて学び続けることが大切

         自分の限界を知り、仏の教えを素直に学ぶことが、悟りへの第一歩となる。

 

まとめ:簡単に言うと…

      「所不能知」とは? 「仏の智慧は深すぎて、普通の人や修行者では完全に理解できない」という意味。

      なぜ理解できないの? 人間には固定観念や執着があり、仏の悟りの境地には届かないから。

 

 

10日

 

 所以者何

 所以(ゆえ)は何(いか)

 その理由はなんであろうか。

 

**「所以者何(しょいしゃが)」とは、「なぜならば」や「その理由は何か?」**という意味の言葉です。

 

「所以者何」を分解してみる

 

この言葉は、漢字を分けて考えると意味がわかりやすくなります。

      「所以(ゆえん)」 理由、原因

      「者(しゃ)」 〜であるもの

      「何(か)」 何か?(疑問)

 

つまり、「どうしてそうなのか?」や「その理由は?」という問いかけの意味になります。

 

法華経方便品での使われ方

 

法華経の方便品では、仏が深い教えを説くときに、この**「所以者何」**がよく使われます。

 

たとえば、仏が「すべての人は最終的に仏になれる」と説いた後、

「所以者何(ゆえにしゃが)?」=「なぜならば、それはこういう理由だからです」

という形で、その理由を詳しく説明する場面がよく出てきます。

 

例を使って説明

 

先生が生徒に教える場面

先生:「努力すれば、必ず成績は上がる!」

生徒:「どうしてですか?」(=所以者何?)

先生:「なぜなら、勉強を続ければ知識が増えて理解が深まるからだよ。」

 

仏の教えでの使い方

仏:「すべての人は最終的に仏になれる。」

弟子:「どうしてですか?」(=所以者何?)

仏:「なぜなら、仏の智慧と慈悲はすべての人に平等に備わっているからである。」

 

このように、「所以者何」は、何か大切な教えを説いた後に**「その理由を説明する前置きの言葉」**として使われます。

 

まとめ:簡単に言うと…

      「所以者何(ゆえにしゃか)」とは? 「なぜならば」「その理由は?」という意味。

      どういう時に使われる? 仏が重要な教えを説いた後、「その理由を説明するとき」に使われる。

      ポイント → **「だからこそ、これから理由を話しますよ」**という前置きの言葉。

 

法華経の中では、「所以者何」と出てきたら、「あ、これから大事な理由が説明されるんだな」と意識して読んでみると、理解しやすくなります。

 

11日

 

 仏曽親近 百千万億 無数諸仏

 

仏曽(かつ)て、百千万億無数の諸仏に親近(しんごん)し、

 

仏は、過去において百千万億もの無数の諸仏のもとで間近く仕え、

 

意味の解説

 

「仏曽親近」(ぶつぞうしんごん)

仏(釈迦)は、過去から現在に至るまで、ずっと仏たちと親しく接して修行を積んできた。

 

「百千万億 無数諸仏」(ひゃくせんまんのく むしゅしょぶつ)

無数の仏(数え切れないほど多くの仏たち)が存在し、それらと深く関わってきた。

 

もう少し噛み砕いて説明します。

 

釈迦は、私たちが知らないほど昔から、無数の仏たちとともに修行し、学び、仏の道を歩んできたということを意味します。つまり、「釈迦は突然悟ったのではなく、長い時間をかけて仏道を極めてきたのだ」と説いているのです。

 

この教えのポイント

 

この部分が大事なのは、「仏は一人で突然生まれるのではなく、多くの仏たちと関わりながら成長する」という考え方が示されているからです。これは、私たちの生き方にも通じます。一人で悟りを開くのではなく、師や仲間との関わりの中で学び、成長していくことが大切だと示唆しているのです。

 

簡単に言えば、**「仏になるには長い修行と多くの仏たちとの関わりが必要」**ということですね。

 

12日

 

 尽行諸仏 無量道法

 

(ことごと)く諸仏の無量の道法を行じ

 

それぞれの仏の持つ無量の仏道の法をことごとく行じ

 

 

意味の解説

 

「尽行諸仏」(じんぎょうしょぶつ)

過去・現在・未来に存在するあらゆる仏たちのもとを訪れ、修行を積み続けること。

 

「無量道法」(むりょうどうほう)

計り知れないほど多くの仏の教えや修行の方法が存在すること。

 

釈迦は、一つの道や一人の師だけで悟ったのではなく、無数の仏のもとを訪ね、あらゆる教え(道法)を学び、修行を重ねてきました。その結果、悟りを開くことができたのです。

 

この教えのポイント

 

この部分が伝えているのは、「悟りを開くには、広く多くの教えを学び、修行し続けることが大切だ」ということです。一つの道に固執するのではなく、多くの智慧を取り入れながら、長い時間をかけて成長していくことが求められています。

 

13日

 

 勇猛精進 

 

勇猛精進して

 

意思堅固(けんご)に、勇(いさ)んで精進を重ねてきた。

 

意味の解説

 

「勇猛精進」(ゆうみょうしょうじん)

勇ましく強い意志を持ち、たゆまず努力し続けること。どんな困難にもくじけず、修行を続ける姿勢を指します。

 

釈迦は、どんな困難にも負けず、強い意志を持って修行を続けました(勇猛精進)。

 

この教えのポイント

 

この部分が伝えているのは、「努力を惜しまず修行を続ければ、やがて多くの人に認められ、その教えが広まっていく」ということです。仏教の教えは、一人だけで完結するものではなく、多くの人々に伝わることで真価を発揮するのです。

 

14日

 

 名称普聞

 

名称(みょうしよう)(あまね)く聞えたまえり

 

勇猛精進を重ねてきた。

そしてその崇高(すうこう)な名声は、一切に聞こえわたったのである

 

**「名称普聞」(みょうしょうふもん)**の意味をもう少し詳しく説明します。

 

言葉の意味

      「名称」(みょうしょう):名前や名声、つまり仏の教えやその徳のこと。

      「普聞」(ふもん):広く聞かれる、広く伝わること。

 

つまり、「名称普聞」とは、仏の徳や教えが広く世の中に知られ、広まっていくことを意味します。

 

文脈での意味

 

『法華経』方便品の文脈では、釈迦が過去に無数の仏のもとで修行を積み、「勇猛精進」してきた結果、その名(仏としての徳や教え)が広く人々に知られるようになったことを表しています。

 

ポイント

 1. 努力の結果として広まる

         「名称普聞」は、ただ単に名が知られるという意味ではなく、修行や善行を積み重ねた結果として、人々がその教えを知るようになるということです。

 2. 仏の教えが世に広がることが重要

         仏教の目的は個人の悟りだけでなく、多くの人々を救うことです。そのため、仏の教えが広く知られ、多くの人に影響を与えることが大切だと説かれています。

 

現代的な解釈

 

「名称普聞」は、単なる名声ではなく、正しい行いを積み重ねることで、その価値が自然と人々に伝わるという考え方につながります。たとえば、誠実に努力を続ける人は、やがて周囲の人に認められ、その影響が広がっていくということにも通じます。

 

まとめ

 

「名称普聞」とは、仏の教えや徳が広く人々に伝わり、多くの人がその恩恵を受けることを意味する。これは、努力を続けることで、やがて人々に認められ、良い影響を与えることにつながるという教えである。

 

 15日

 

「成就甚深 未曽有法」

 

甚深(じんじん)未曽有(みぞう)の法を成就して

 

はるかに深遠(じんのん)で、いまだかつてない法を成就して悟りを得。

 

1. 言葉の意味

      成就(じょうじゅ):完成する、成し遂げられる

      甚深(じんじん):非常に深い、奥深い

      未曽有(みぞう):今までにない、かつてなかった

      法(ほう):教え、真理

 

つまり、「非常に深い真理が完成し、今までにない教えが示される」といった意味になります。

 

2. 文脈と意味すること

『法華経』の「方便品」では、釈迦がこれまで説いてきたさまざまな教え(小乗や大乗の教え)は、すべて人々を最高の悟り(仏の境地)へ導くための「方便(ウソではなく手段)」だったと説かれます。そして、ここで初めて「本当の教え」が明かされるのです。

 

この「成就甚深 未曽有法」は、その「本当の教え」が非常に深く、これまでにないほど素晴らしいものであることを強調しています。

 

3. 具体的にどんな教え?

この後に続く『法華経』の教えでは、「すべての人が仏になれる道がある」ということが説かれます。

      それまでの教えでは、「出家した修行者」や「限られた人」しか仏になれないとされていましたが、『法華経』では「どんな人でも最終的に仏になれる」とされます。

      これは、特定の人に限らず、どんな立場の人でも救われるという希望に満ちた教えです。

 

4. まとめ

「成就甚深 未曽有法」とは、釈迦が『法華経』の中で初めて説いた「すべての人が仏になれる」という深遠で画期的な教えを指します。この言葉は、『法華経』がこれまでの仏教の概念を超えた、革新的で普遍的な教えであることを示しているのです。

 

16日

 

 「随宜所説 意趣難解」

 

宜しきに隨(したが)って説きたもう所、意趣解()し難(がた)し。

 

時や衆生の機根に応じて、様々に説いてきたのであるから、その真意や意向は、実に理解しがたいということである。

 

1. 言葉の意味

      随宜(ずいぎ):相手の状況や理解に応じて

      所説(しょせつ):説いたこと、教えたこと

      意趣(いしゅ):本当の意味、真意

      難解(なんげ):理解しにくい、難しい

 

つまり、「釈迦は人々の理解に合わせて教えを説いてきたが、その真意はとても深く、簡単には理解できない」という意味になります。

 

2. 文脈と意味すること

 

仏教の教えは、一度にすべてを伝えるのではなく、聞く人のレベルや状況に合わせて少しずつ説かれてきました。

      例えば、子供にいきなり難しい話をしても理解できません。だからこそ、子供の成長に応じた教え方をするのと同じように、釈迦も人々の理解に応じて段階的に説法をしてきました。

      しかし、その教えの本当の意味(意趣)は非常に深く、一見すると違う話のように思えるかもしれません。

 

この部分で釈迦は、「今まで私は人々に合わせて話してきたが、その背後には深い真理がある。その真意を理解するのは簡単ではない」と言っています。

 

3. 具体的な例え

 

たとえば、親が子供に「お菓子ばかり食べたらダメだよ」と言うとき、本当の理由は「健康を守るため」です。でも、子供には「虫歯になるよ」くらいの理由で伝えることが多いですよね。

      これは、子供が理解しやすいように簡単な理由を示しているだけで、親の真意はもっと深いものです。

      釈迦の教えも同じで、これまで「わかりやすく説かれた教え」はあくまで手段であり、本当の意味はもっと深いものだったのです。

 

4. まとめ

 

「随宜所説 意趣難解」とは、 「釈迦はこれまで人々に合わせた教えを説いてきたが、その本当の意味は非常に深く、一度聞いただけでは理解しにくい」 ということを表しています。

この後に続く『法華経』の教えでは、「実はこれまでの教えはすべて仏の境地へ導くための方便だった」と明かされます。つまり、この言葉は 「これから話すことが本当の真理だよ」 という重要な前置きなのです。

 

17日

 

 舎利弗(しゃりほつ)は、お釈迦様の弟子の中で「智慧第一(ちえだいいち)」と称えられた人物です。これは、彼が仏教の教えを深く理解し、論理的に説明する力に非常に優れていたためです。

 

たとえば、舎利弗は一度聞いただけでお釈迦様の教えを正確に理解し、それを他の弟子たちにもわかりやすく伝えることができました。まるで、難しい数学の問題を聞いただけでスラスラ解いて、友達に優しく教えられるような人だったのです。

 

また、彼はただ頭が良かっただけでなく、相手の立場に合わせて教えを説くことができました。子どもには子どもにわかるように、大人には大人に合った説明をすることができたのです。そのため、多くの人が彼の話を聞いて、仏教の教えを深く理解することができました。

 

このように、舎利弗は仏教の教えを広める上でとても大切な役割を果たしたため、「智慧第一」と呼ばれたのです。

 

18日

 

 吾従成仏以来

 

(われ)成仏してからこれまで間

 

法華経の方便品にある「吾従成仏以来」は、とても重要な言葉です。簡単に説明すると、これはお釈迦様が「自分が仏になったのは、はるか昔のことだ」と説いている部分です。

 

一般的には、お釈迦様は今から約2500年前にインドで悟りを開いたとされています。でも、この法華経の中では「実は私はそれよりもずっと昔に仏になっていたんだ」と言っているのです。つまり、「仏という存在は永遠であり、人々を導き続けている」ということを表しています。

 

これは「久遠実成(くおんじつじょう)」[法華経の二意の一つ。これ大事❗️

と呼ばれる考え方で、「仏はずっと昔からいて、常に私たちを導いている」と説いているのです。だから、お釈迦様がこの世に現れたのも、本当に新しく悟ったわけではなく、私たちを救うために姿を現したにすぎない、ということになります。

 

この教えを通して、私たちもまた仏の教えを信じ、修行することで、仏の智慧と慈悲を学び、自らの心を高めることができる、というメッセージが込められています。

 

19日

 

種種因縁 種種譬喩

 

種種の因縁、種種の譬喩(ひゆ)をもって

 

様々な物事の因縁の相や様々な譬喩を用い

 

法華経の方便品にある「種種因縁(しゅじゅいんねん)・種種譬喩(しゅじゅひゆ)」は、お釈迦様が教えを説くときに、さまざまな人の状況や理解度に合わせて、いろいろな方法を使ったことを意味しています。

 

「種種因縁」とは?

 

「因縁」とは、物事が起こる原因や背景のことです。「種種因縁」とは、「人それぞれに違った背景や性格、考え方があるので、それに応じた教えを説く」ということを指します。たとえば、子どもと大人では理解の仕方が違うので、それぞれに合った話し方をするのと同じです。

 

「種種譬喩」とは?

 

「譬喩(ひゆ)」とは、わかりやすい例え話のことです。「種種譬喩」は、「さまざまな例え話を使って教えを伝える」という意味です。お釈迦様は、難しい仏の教えを直接伝えるのではなく、人々が理解しやすいように身近な話を使いました。たとえば、「三車火宅(さんしゃかたく)」の譬え話のように、火事になった家から子どもを助けるためにさまざまな乗り物を用意する話があります。

 

まとめ

 

お釈迦様は、すべての人を救うために、その人に合った方法で教えを説いていました。直接教えを理解できる人にはそのまま説き、難しい人には例え話を使って伝えたのです。これは、仏の慈悲の表れであり、すべての人に悟りの道が開かれていることを意味しています。

 

20日

 

 広演言教

 

広く言教を演()

 

広く言辞をもって教えを演説するなど

 

法華経の方便品にある**「広演言教(こうえんごんきょう)」**とは、「広く言葉を使って教えを説く」という意味です。

 

どういうこと?

 

お釈迦様は、多くの人を救うために、さまざまな言葉や方法を使って教えを説きました。これは、誰にでも仏の教えが伝わるようにするためです。たとえば、子どもには子どもに分かる言葉で、大人には大人向けの言葉で話すように、相手に応じた方法を工夫しました。

 

また、お釈迦様の教えには、簡単に理解できるものもあれば、深く考えないとわからないものもあります。これは、人それぞれに理解度が違うため、その人に合った教え方をする必要があったからです。

 

具体的な例

 

たとえば、お釈迦様は「三車火宅(さんしゃかたく)」の譬え話を使いました。これは、「燃えさかる家の中に子どもがいて、危ないから早く逃げなさいと親が呼びかける」という話です。子どもたちは遊びに夢中で逃げようとしません。そこで親は、「外に素敵な乗り物があるよ!」と言って子どもたちを誘い出します。このように、相手に伝わりやすい方法を使って教えるのが「広演言教」の考え方です。

 

まとめ

 

「広演言教」とは、お釈迦様ができるだけ多くの人に仏の教えを伝えるために、さまざまな言葉や方法を使ったことを意味します。この考え方を通して、仏の教えは特定の人だけでなく、すべての人に開かれているということがわかります。

 

21日

 

 無数方便(むしゅ方便)

 

無数(むしゅ)の方便をもって

 

方便とは、衆生を教化するために用いる仮りの教え。

真実の教法に導くために用いる巧みな手段のこと。

 

法華経の方便品にある**「無数方便(むしゅほうべん)」**とは、「数えきれないほどたくさんの方法(方便)を使って人々を導く」という意味です。

 

どういうこと?

 

お釈迦様は、すべての人を救うために、一つの決まったやり方ではなく、それぞれの人に合った方法で教えを説きました。これを「方便(ほうべん)」といいます。「無数方便」とは、その方法が無限にあるということです。

 

例えば、

      子どもには優しい言葉で話す

      学者には深い哲学的な話をする

      農民には自然を例にたとえて話す

 

このように、その人が理解しやすい方法を使い分けて教えを説きました。

 

具体的な例

 

たとえば、火事になった家の中で遊んでいる子どもに、「早く逃げなさい!」と言っても、言うことを聞かないかもしれません。でも、「外に楽しいおもちゃがあるよ!」と言えば、すぐに外へ飛び出すかもしれません。このように、相手にとって受け入れやすい言葉や方法を使うのが「方便」です。

 

まとめ

 

「無数方便」とは、お釈迦様が一人ひとりの性格や理解力に合わせて、いろいろな方法で仏の教えを伝えたことを意味します。これは「仏はすべての人を救おうとしている」という深い慈悲の表れです。

 

22日

 

 引導衆生

 

衆生を引導して

 

衆生を仏道へと誘導し

 

法華経の方便品にある**「引導衆生(いんどうしゅじょう)」**とは、「多くの人々(衆生)を正しい道へ導く」という意味です。

 

どういうこと?

 

お釈迦様は、迷いや苦しみの中にいる人々を救い、仏の悟りへと導こうとしました。でも、人それぞれ性格や考え方が違うので、一つの方法だけでは伝わりません。そこで、お釈迦様は相手に合った方法(方便)を使いながら、少しずつ真理へと導いたのです。

 

具体的な例

 

例えば、川の向こう岸に行けば幸せになれるのに、人々は気づかず、今いる場所にとどまっています。お釈迦様は橋を作ったり、舟を用意したりして、「こちらへ来なさい」と導きます。最初は気づかなくても、徐々に道を示し、安心して進めるように手助けするのが「引導衆生」です。

 

また、子どもが暗い道を怖がって進めないとき、「こっちにおいしいお菓子があるよ」と言って前へ進ませ、最終的には安全な場所へ導くようなイメージです。

 

まとめ

 

「引導衆生」とは、お釈迦様が一人ひとりに合った方法を使って、迷いの世界から悟りの世界へと導くことです。これは、「すべての人が救われるために、仏はさまざまな工夫をしている」という大きな慈悲の表れでもあります。

 

23日

 

 令離諸著(りょうりしょじゃく)

 

(もろもろ)の著(じゃく)を離れしむ。

 

物事へのあらゆる執着から解放させてきた。

 

法華経の方便品にある**「令離諸著(りょうりしょじゃく)」**とは、「人々をあらゆる執着(しゅうちゃく)から離れさせる」という意味です。

 

どういうこと?

 

人は、物や考えにこだわってしまい、それが苦しみの原因になることが多いです。たとえば、

      お金や物に執着すると、「もっと欲しい」と苦しくなる

      自分の考えにこだわると、人とぶつかって悩む

      過去の失敗や後悔にとらわれると、前に進めない

 

こうした執着を手放すことで、心が自由になり、本当の幸せや悟りの道へ進むことができます。お釈迦様は、さまざまな方法(方便)を使って、人々が執着を手放せるように導いたのです。

 

具体的な例

 

例えば、子どもが壊れたおもちゃをずっと握りしめて泣いているとします。でも、それを手放せば、もっと楽しい遊びができると気づいていません。親が「こっちに新しいおもちゃがあるよ」と優しく声をかけると、子どもは自然と古いおもちゃを手放します。

 

これと同じように、お釈迦様は「もっと大切なものがあるよ」と示しながら、人々が執着から解放されるように導いたのです。

 

まとめ

 

「令離諸著」とは、お釈迦様が人々の執着を取り除き、心を自由にして悟りへと導くことを意味します。これは、「本当の幸せは、物やこだわりを手放すことで得られる」という大切な教えです。

 

24日

 

 所以者何(しょいしゃが)

3月10日分を参照して下さい。

 

如来方便

 

如来は方便

 

如来は人々を仏道へ導くための巧妙な方便

 

方便・・・衆生を教化するために用いる仮の教え。

真実の教法に導くために用いる巧みな手段のこと。

 

法華経の方便品(第二品)に出てくる「如来方便(にょらいほうべん)」とは、仏が衆生(人々)を救うために、状況や相手に応じてさまざまな教えや手段を用いることを指します。

 

仏が人々を導くために、その人に合った方法で真実を伝えるということです。たとえば、子どもには子どもにわかる言葉で、大人には大人に合った説明をするようなものです。

 

 

たとえ話で考える「如来方便」

 

昔、ある村に大きな火事が起こりました。しかし、その村の子どもたちは遊びに夢中で、火事の危険に気づいていません。そこで父親は、「外には楽しいおもちゃがあるよ!」と子どもたちに声をかけます。子どもたちはおもちゃを求めて外に出て、結果的に火事から逃れることができました。

 

ここで、「おもちゃがある」というのは方便(手段)です。本当の目的は子どもたちを火事から助けることですが、子どもたちにとって分かりやすい方法で導いたのです。

 

 

法華経の中での「方便」

 

仏教にはいろいろな教えがありますが、それらはすべて「方便」だとされています。仏は人々の理解度や状況に応じて、さまざまな教えを説きます。しかし、それらの教えの最終的な目的は、すべての人を仏の悟りに導くことです。法華経では、この最高の悟りを「一仏乗(いちぶつじょう)」と呼びます。つまり、どんな方法(方便)を使っても、最終的にはみんなが仏になれる、ということです。

 

簡単にまとめると、「如来方便」とは、仏がすべての人を救うために、それぞれに合った教えを説くこと です。

 

25日

 

 知見波羅蜜

 

法華経の方便品に出てくる「知見波羅蜜(ちけんはらみつ)」とは、「仏の知恵と見方を完成させること」 です。「波羅蜜」とは「完成」「到達」という意味があり、「知見波羅蜜」は 仏の知恵を極めて真理を見抜く境地に達すること を指します。

 

 

わかりやすいたとえ話

 

たとえば、霧がかかった山道を歩いているとします。霧のせいで前がよく見えず、不安になりながら歩くことになります。

 

でも、もし高い場所に登って霧を見下ろせるようになればどうでしょう?道がどこまで続いているのか、どこに危険があるのかがよく分かるはずです。

 

この 「霧を抜けて、全体を見渡せる視点を得ること」 が「知見波羅蜜」に似ています。つまり、仏の智慧を身につけることで、物事の本質を正しく見抜くことができるのです。

 

 

法華経の教えと「知見波羅蜜」

 

仏は、人々が本当の真理(悟り)に到達できるように、いろいろな教えを説きます。しかし、多くの人は迷いや執着(こだわり)によって、その真理をはっきり見ることができません。だからこそ、仏の智慧を学び、物事を正しく見極める力を養うことが大切なのです。

 

法華経の方便品では、仏が人々を導くために「仏の知見を開かせ、示し、悟らせ、入らせる」と説かれています。これは、すべての人が「知見波羅蜜」に達することができるようにするための教えです。

 

 

まとめ

 

「知見波羅蜜」とは、仏の智慧を完成させ、物事の本質を正しく見抜く境地に至ること です。迷いや執着を取り払い、仏の目で世界を見ることができるようになることを目指す教えなのです。

 

 26日

 

六波羅蜜と知見波羅蜜の関係

 

六波羅蜜(ろくはらみつ)と知見波羅蜜(ちけんはらみつ)は、ともに「波羅蜜(完成・到達)」という言葉が含まれていますが、少し異なる視点から説かれています。しかし、本質的には深く関係しています。

 

 

六波羅蜜とは?

 

六波羅蜜は、菩薩が悟り(仏の境地)に至るために実践すべき六つの修行のことです。

 1. 布施(ふせ) 見返りを求めず、人に施しをすること

 2. 持戒(じかい) 戒律を守り、正しい行いをすること

 3. 忍辱(にんにく) 辛抱強く耐え、怒りや憎しみを克服すること

 4. 精進(しょうじん) 努力を続け、善を積むこと

 5. 禅定(ぜんじょう) 心を落ち着け、深い瞑想に入ること

 6. 智慧(ちえ) 真理を正しく理解すること

 

これらは、迷いの世界(煩悩の世界)から悟りの世界へ到達するための実践的な方法とされています。

 

 

知見波羅蜜との関係

 

六波羅蜜の最後に「智慧」がありますが、これは単なる知識ではなく、仏の真理を正しく理解する知恵 です。

 

一方、知見波羅蜜は「仏の知見を極めること」 を指します。つまり、六波羅蜜の「智慧」をさらに発展させ、仏の視点で物事を見抜く境地に達すること が「知見波羅蜜」と言えます。

 

六波羅蜜の修行を積むことで、最終的に「知見波羅蜜」に至ることができるのです。

 

 

例え話で考えると…

 

六波羅蜜は「山を登るための六つの道具」のようなものです。

      布施 は「仲間と助け合う心」

      持戒 は「道を外れないための地図」

      忍辱 は「困難に耐える力」

      精進 は「一歩ずつ登る努力」

      禅定 は「落ち着いて道を見極める心」

      智慧 は「山頂の方向を正しく知ること」

 

こうして山を登り切ると、頂上(悟り)に到達し、霧が晴れ、全体を見渡せる視点を得る。これが「知見波羅蜜」です。つまり、六波羅蜜を実践することで、知見波羅蜜に至るのです。

 

 

まとめ

 

六波羅蜜は悟りへの修行の道であり、その中の「智慧」を究極まで高めたものが「知見波羅蜜」です。六波羅蜜を修めることが、知見波羅蜜(仏の知見を完成させること)につながる、という関係があります。

 

27日

 

 波羅蜜(はらみつ) は、梵語(サンスクリット語)で 「Pāramitā(パーラミター)」 といいます。

 

Pāramitā の意味

      pāra(パーラ)」 = 「向こう岸」「彼岸(悟りの世界)」

      mitā(ミター)」 = 「到達する」「完成する」

 

つまり、「Pāramitā(波羅蜜)」とは 「悟りの境地(彼岸)に到達すること」 を意味します。

 

 

たとえ話で考えると…

 

私たちがいる迷いの世界(煩悩の世界)は 「こちら岸」 です。

悟りの世界(涅槃の境地)は 「向こう岸(彼岸)」 です。

 

しかし、その間には大きな川が流れていて、普通の方法では渡ることができません。

 

そこで、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)という「橋」や「船」を使って、向こう岸にたどり着くことができるのです。

 

つまり、波羅蜜とは 「迷いの世界から悟りへと渡るための完成された道」 という意味になります。

 

28日皆已具足(かいいぐそく)

 

 皆已(すで)に具足せり

 

(そな)え持っているからである。(基本は仏のこと)

 

法華経方便品にある「皆已具足」とは、「すべての人はすでに仏の智慧や徳を備えている」 という意味です。

 

 

わかりやすいたとえ話

 

例えば、泥に埋もれた宝石を想像してください。最初は汚れていて見えませんが、磨けば本来の輝きを取り戻します。

 

同じように、私たちも迷いや煩悩に覆われているだけで、もともと仏と同じ智慧や徳を持っているのです。

 

 

法華経の教え

 

「皆已具足」は、すべての人が仏になれる可能性を持っている ことを示しています。仏の教えを学び、修行することで、その本来の姿を現すことができるのです。

 

29日

 

 舎利弗(しゃりほつ)③

 

舎利弗(しゃりほつ)の名前の由縁については、いくつかの説がありますが、一般的には次のような説明がされています。

 

「舎利弗」という名前の「舎利(しゃり)」は、仏教の用語で「仏の遺骨」や「仏の遺物」を指します。「舎利」は仏教の聖なるものを象徴する言葉であり、「弗(ほつ)」は音であるため、舎利弗という名前は「仏の智慧に通じる者」という意味が込められているとも言われています。

 

また、別の説では、舎利弗の名前の由来は「舎利(しゃり)」が「聖者」や「聖なる者」を意味し、彼が非常に聡明であり、仏教の教えを深く理解していたことから、その名が与えられたとも考えられています。

 

いずれにしても、舎利弗という名前には、仏教における高い智慧や聖なる存在であることを示す意味が込められているとされています。

 

30日

 

 如来知見

 

法華経「方便品」の如来知見とは?

 

法華経の「方便品(ほうべんぼん)」では、仏(如来)の持つ「知見(ちけん)」について説かれています。簡単に言うと、「如来知見(にょらいちけん)」とは、仏がすべてのものを正しく知り、見通す智慧(ちえ)と視点のことです。

 

如来知見の意味をわかりやすく

 

仏は、人々が本当の幸せ(悟り)に至るための道をすべて知っています。そして、あらゆる人の心や考えを見抜き、それぞれにふさわしい教えを説くことができます。この仏の智慧と視点が「如来知見」です。

 

例えば、学校の先生が生徒一人ひとりの理解度や性格を見極めて、その子に合った教え方をするようなものです。仏は、すべての人の本質を知り、その人に最適な方法で導くことができます。

 

なぜ如来知見が重要なのか?

 

人間は、自分の悩みや迷いの中で、何が正しいのか分からなくなることがあります。しかし、仏はすべてを見通し、どんな人でも悟りへ導く方法を知っています。そのため、法華経では「仏の知見を開示し、悟らせることこそが、仏がこの世に現れた目的である」と説かれています。

 

つまり、法華経の教えの中心は「仏の智慧を私たちにも開き、自分自身で正しい道を見つけられるようにすること」なのです。

 

どうすれば如来知見を得られるのか?

 

如来知見は、特別な人だけが持つものではなく、すべての人が持つ可能性があります。そのために大切なのは、仏の教えを学び、実践することです。たとえば、以下のような心がけが重要です。

 1. 素直な心を持つ 仏の教えを学び、実践しようとする姿勢を持つ。

 2. 思いやりの心を育てる 他人の気持ちを理解し、助け合うことで、智慧が深まる。

 3. 日々の行いを見つめる 自分の行動や考えを振り返り、より良い生き方を目指す。

 

まとめ

 

「如来知見」とは、仏の持つ正しい知恵と視点のこと。仏は、すべての人を悟りへ導く智慧を持ち、それを私たちに伝えようとしています。その智慧を学び、自分のものにしていくことで、よりよい生き方を実現できるのです。

 

 

 

31日

 

 「広大深遠(こうだいじんのん)」とは?

 

法華経「方便品」で説かれる「広大深遠」とは、仏の智慧(知見)が「広く、深く、はかり知れない」ものであることを意味します。つまり、仏の智慧は私たちの想像をはるかに超えた、無限に広くて奥深いものだということです。

 

「広大」とは?

 

「広大」とは、仏の智慧がすべての人やものに及んでいることを表します。仏の知恵は、一部の人だけに限られたものではなく、どんな人でも、どんな状況でも救い導くことができます。

 

例えば、空がどこまでも広がっていて、すべてを包み込んでいるようなイメージです。仏の智慧も、どんな人の悩みや迷いにも対応できるほど広く、すべてを受け入れ、照らし出す力を持っています。

 

「深遠」とは?

 

「深遠」とは、仏の智慧がとても深く、私たちの浅い考えでは簡単に測ることができないことを示しています。仏は、過去・現在・未来のすべてを見通し、人間の表面的な考えでは分からないような真理を知っています。

 

例えば、深い海の底には私たちが知らない世界が広がっているように、仏の智慧もとても奥深く、私たちの普通の理解ではすぐに届かないものなのです。

 

なぜ「広大深遠」が大切なのか?

 

私たちは、普段の生活の中で目の前の出来事にとらわれがちですが、仏の智慧はもっと大きな視点で物事を見ています。それを知ることで、悩みや迷いに振り回されず、本当に大切なことを見つけることができるのです。

 

例えば、困難なことが起こったときに「なぜこんな目に遭うのか?」と考えてしまいがちですが、仏の視点から見れば、それは人生の流れの一部であり、自分を成長させるための大切な経験なのかもしれません。

 

どうすれば「広大深遠」に近づけるのか?

 

仏の智慧をすべて理解することは難しいですが、私たちも少しずつ近づくことができます。

 1. 広い心を持つ 物事を狭い視点で見ず、大きな視野で考えるようにする。

 2. 深く考える 目の前の出来事の裏にある意味を考え、感情だけで判断しない。

 3. 仏の教えを学び、実践する 法華経の教えを学び、日々の生活の中で実践することで、少しずつ仏の智慧に近づく。

 

まとめ

 

 

「広大深遠」とは、仏の智慧が無限に広く、深く、私たちの知識や考えでは簡単に測れないことを表しています。しかし、それを知り、少しずつでも仏の視点に近づこうとすることで、私たちの生き方もより豊かで揺るがないものになっていきます。