「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得べきか」
(如来滅御五五百歳始観心本尊抄 六六二)
【現代語訳】
「空が晴れれば大地の様子がはっきりと見て分かるように、法華経を識る者は世法をも得ることができる」
(解説)
天台大師は「降雨の激しさを見て竜*の大きいことをしり、花の大きさを見て池の深さを知る」と。
妙楽大師は「智人**は仏法の起こりを知り蛇は自ら蛇を知る」と。
空が晴れれば大地の様子がはっきりと見て分かるように、法華経を識る者は世法をも得ることができる。
一念三千の法門を識らない者には、仏様が大慈悲を起こして、妙法蓮華経の五字の中にこの珠を裹み、末代幼稚の人々の頸に懸けて下さるのです。
***真の智人は地涌の菩薩
「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり」
(諸経と法華経と難易の事 一四六九)
【現代語訳】
日々、自分の心がけが乱れていると生活にも影響し、体が曲がれば影も曲がるように生活自体も乱れます。また自分自身においてしっかりと心を正していても他人からの影響で乱れてしまうことがあります。
常に人間は生活を乱されやすい環境下にあり、自分が乱れないように、また他人から乱されないように、きちんとした気持ちを維持していくことが大事です。
乱されないように維持していくための大事な努めが御本尊の御前で端座し合掌する朝夕の勤行唱題です。勤行することで御本尊に具わる不動の心を身につけていくことが叶います。不動の心を身に具ることで心が乱れなくなり、乱されやすい環境下においても乱されずに柔軟な対応ができていきます。一日一日と地道な勤行唱題で乱されない安穏な不動の精神を養っていきます。
依正不二の原理を御教示なさった御言葉で、仏法が倒れると世の中にも悪がはびこって人を惑わせ、世が乱れます。仏法は体であり世間は仏法の繁栄の度合いをありのままに伝える影となります。邪な宗教が蔓延し体である仏法が曲がり繁栄されなければ、影となる世の中も乱れ悪い思想が充満し生活環境全体に影響してきます。仏法には正しい仏法と社会悪をもたらす邪な仏法があるため、正しい仏法が繁栄しないかぎり世の中の根本的な乱れは沈静しません。
(御住職指導より抜粋)
『御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此なり』
(檀越某御返事 二二二〇)
「御みやづかい」とは、会社勤めや職務のことです、つまり、自分の仕事を法華経の大切な修行だと捉えて精進していくことが大切です。そして、そこに社会の全ての営(いとな)みが、妙法蓮華経そのものとして活現(かつげん)していくことを御示しになっています。
この御金言について、御法主日如上人猊下は次のように御指南されておられます。。
「普段の生活の中でも、すべてにわたり妙法の一念をもって取り組んでいくということが極めて大切であります」 (大白法 八六八号)
つまり、「正しい信仰」を持つことは、社会の一員として、妙法によって培(つちか)った人格・功徳をもって社会に貢献していくことなのです。
仏道の因果の道理を弁(わきま)え、よき因行を積み、よき結果を生み出そうと努力する人格は、真の仏法の実践によって培(つちか)われるものであり、またその功徳の現れです。正しい御本尊への信仰を中心とすることにより、溌剌(はつらつ)として清浄な生命を開きますから、仕事に従事する目的も明確となり、意欲も向上していくのです。
(大白法 平成二十九年一月十六日号)
「世間の浅き事には身命を失えども、大事の仏法なんどには捨つる事難し」
(佐渡御書 五七八)
【現代語訳】
「世間の浅いことには身命を失うことはあっても、大事な仏法のために命を捨てることはむずかしい。そのために仏に成る人もいないのである」
此の佐渡御書では、仏法のためには身命を惜しまない信心を貫くことこそ成仏への直道であることが示されています。
文永八年(一二七一年)九月十二日、竜の口の刑場へ向かわれる途上、大聖人は四条金吾に向かって「今夜頚切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・きじ(雉)となりし時は・たか(鷹)につかまれ・ねずみ(鼠)となりし時は・ねこにくらわれき、或はめこ(妻子)のかたき(敵)に身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし、今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん其のあまりは弟子檀那等にはぶ(配当)くべし」(九一三㌻)と、仏法のために命を捨てることのできる喜びを語られているのであります。
竜の口で発迹顕本なされた大聖人は、末法御本仏の御境界から、弟子檀那を等しく成仏へ導かんとの大慈悲で、大難を受けることを喜びとする不惜身命の信心を勧められているのです。
この御文は壮絶なお覚悟を御顕しと拝し致しました。拝読していてビリビリ感じ入ります。
「此の法華経計りに、此の経を持つ女人は一切の女人にすぎたるのみならず。一切の男子にこえたりとみえて候」
(四条金吾殿女房御返事 七五六~七五七)
【現代語訳】
「この法華経にのみ、この経を受持する女性は、他の一切の女性に優れているだけでなく、一切の男性にも超えている」
法華経のみが女人成仏の経であると断じて仰せです。
本抄は、文永十二(一二七五)年一月二十七日、大聖人様が五十四歳の御時に、身延より四条金吾殿の妻・日眼女に与えられた御消息です。
日眼女が、三十三歳の厄年に当たって厄の御祈念のために大聖人様に御供養を捧げたのに対して、法華経信仰の功徳の甚深なることを説いて信仰を励まし、厄年を恐れずに精進するよう御教示されたものです。
女性はその性質から、世法や権経では男性に劣り穢けがれているとされていること(これは当時の世の中の考え方です)に対して、法華経を持つ女性は一切の女性に超えて尊く、一切の男性にも勝れていると説かれます。
この仰せを胸に、罪障深い我が身であるからこそ、真に即身成仏の叶う大聖人様の仏法を求め、いよいよ仏道修行に励んでいこうではありませんか。
(大白法・平成21年2月1日刊 第758号より転載)
「三十三の厄(やく)は転じて三十三の幸いとならせ給うべし。七難即滅七福即生とは是なり。 年は若くなり、福は重なり候べし」
(四条金吾殿女房御返事 七五七)
(解説)
世間では、よく42歳の厄年だ、33歳の大厄(たいやく)だといって心配している人が大ぜいいます。
しかし、日蓮大聖人は前記の通り仰せになられて、妙法の信徒にとって厄はけっして恐ろしいものではなく、むしろその時こそ若さを増し、はつらつとして福徳を積むことができるのだと仰せです。
厄という字は、もともとは木の節のことで、木に節があると製材や木工に困るところから転じて、災いや苦しみの意味に用いられるようになったといわれています。
また厄年の年齢区分についていえば、男性の25歳、42歳、61歳は、昔は人間の一生の折り目にあたる年祝(としいわい)の行われた年齢で、青年が壮年組に入り、村人のために諸種の役を得る資格を得、また壮年より老年組に入る節目のことで、決して忌(い)みきらうことではなかったのです。
また女性の19歳、33歳、37歳は、育児や健康の上でも、ひとつの節し目にあたる時期だったようです。
日蓮大聖人は、
「やくと申すは譬(たと)へばさいにはかど、ますにはすみ、人にはつぎふし、方には四維の如し」(日眼女造立釈迦仏供養事・御書1351頁)
と、さいころの角・升のすみ・人体の関節・方位の四隅などのように、厄とは人生における大事な折り目のことなのだと教示されています。
そうした時期に、単なる42歳は「死に」通じるから、33歳は「さんざん苦労する」などと語呂合わせをして思い悩むのはまったく馬鹿げたことだといわなくてはなりません。
また、世間の迷妄に紛動されて、邪(よこしま)な神社や寺で厄ばらいなどを頼む人は、
「善を修すると打ち思ひて、又そばの人も善と打ち思ひてある程に、思はざる外に悪道に堕(お)つる事の出(い)で来候なり」(題目弥陀名號勝劣事・御書331頁)
と日蓮大聖人が説かれているように、かえってよけいに災いや魔が競うのです。
日蓮大聖人の、
「厄の年災難を払はん秘法には法華経には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな」(太田左衛門尉御返事・御書1224頁)
との教えどおり、私たちはこの厄年の節目の時こそ、邪心・邪説に惑わされることなく、正しい御本尊のもとにいっそうの信心を奮い起こして、七難即滅・七福即生の、より輝かしい人生を切り開いていくことが必要なのです。
「いかなる男を夫為(せさ)せ給うとも、法華経のかたきならば随ひ給ふべからず。いよいよ強盛(ごうじょう)に御志あるべし」
(乙御前御消息 八九七)
【現代語訳】
「どんな男を夫とされても、法華経に敵対するならば随ってはならない。いよいよ強盛の信心を持ちなさい」
この章は、強盛な信心に立つならば、なにものによっても破られることはない、ということを幾多の例を引いて示されて居られます。
まず、乙御前の母に対し、だれと再婚するにせよ「法華経のかたき」に従ってはいけないこと、大切なことは、乙御前の母自身がいっそう信心に励み、なにものによっても崩されることのない、福運をみずから築き上げることである、と懇(ねんご)ろにご指導されて居られます。
この御文はその中で、寡婦の日妙尼がどんな素晴らしい男性を夫に選ぶ場合も、この優れた法華経信仰の妨げとなる人なら、敢えて避けるほどの強い信心力を今後も養うことを勧められるお言葉です。
「法華経は師子王の如し、一切の獣(けもの)の頂(いただき)とす。 法華経の師子王を持つ女人は、一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るヽ事なし)
(千日尼御前御返事 一二九〇)
【現代語訳】
「一頭の師子に百匹の子がいます。その百匹の子が諸々の禽獣(きんじゅう)に襲われている時、(親である)一頭の師子王が吼えれば、百匹の子は力を得て、諸々の禽獣は皆、頭が七つに割れるのです。法華経は師子王のようなものであり、一切の獣の頂点に立つのです。法華経という師子王を持(たも)つ女性は、一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣を恐れることはありません
「師子の子」が、師子王の声に力を得たように、法華経を持(たも)つ人は、妙法の偉大な力を得て、自らの無限の力を発揮し、地獄・餓鬼・畜生等の生命を打ち破ることができます」
信心強き女性によって、必ず広宣流布の道が開かれるとの深い御期待が込められていると拝されます。師の期待を知り、応(こた)えようとする時、弟子は、無限の力を発揮することができるのです。
「妙とは蘇生(そせい)の義なり。蘇生と申すはよみがえる義なり」
(法華経題目抄 947)
「妙とは蘇生の意味である。蘇生とは、蘇(よみがえ)るということである」
「妙とは蘇生の義なり」 との御教示からも、我が身に仏界がはっきり顕れるためには、御本尊様に信の題目を唱える以外にありません。
したがって、成仏の大利益を賜ることができるのは、戒壇の大御本尊様在まします我が日蓮正宗以外に無いということを知らなければならないのです。
もったいなくも御本尊様に値遇できた私たちは、その有り難さをしっかり胸に刻み、精進すべきなのです。
(大白法・平成12年8月1日刊 より転載)
「日月(にちがつ)は東より出でさせ給はぬ事はありとも、大地は反覆(はんぷく)する事はありとも、大海に潮はみちひぬ事はありとも、破(われ)たる石は合ふとも、江河(こうが)の水は大海に入らずとも、法華経を信じたる女人の、世間の罪に引かれて悪道に墜(お)つる事はあるべからず」
(月水御書 三〇二)
【現代語訳】
「日月が東から出ないことがあろうとも、大地が覆(くつがえ)ることがあろうとも、大海の潮が満干(みちひ)ないことがあろうとも、われた石が元通りに合おうとも、江河(こうが)の水が大海に流れ込まなくとも、法華経を信仰している女人が、世間の罪に引かれて悪道に堕ちることはあるわけがない」
法華経はその一句一字にいたるまで絶大な功徳があり、その大きさは凡夫衆生に知ることはできないと断言されています。
また大聖人様は、釈尊にはさまざまな教えがあるが、釈尊自身の言葉と多宝仏や十方諸仏の証明から、明らかに一字たりとも法華経には妄語はなく、これを信仰すれば女性であっても世間の罪で悪道に堕おちることはないと御教示されています。
そこで大聖人様は法華経二十八品のなかで重要なのは『方便品』と『寿量品』であり、この両品を読むならば余品の功徳は自然に具わることを教えられ、「方便品・寿書品の読誦」を勧められています。
「夫(それ)水は寒積れば氷となる。雪は年累(かさ)なって水精(すいしょう)となる。悪積もれば地獄となる。善積もれば仏となる。法華経供養の功徳かさならば、あに竜女があとをつがざらん」
(南条殿女房御返事 一二二七)
【現代語訳】
「水は寒さが積もれば氷となるし、雪は年を重ねれば水精となります。(同じように)悪が積もれば地獄に堕ち、善行を積めば仏となります。女人は嫉妬が重なれば毒蛇となります。法華経供養の功徳が重なれば、竜女のあとを継いで成仏することは間違いありません」
「雪は年累(かさな)つて水精と為る」との例は、水晶が雪深い山中にとれることから、こう考えられていたのです。かつてヨーロッパでも水晶は、アルプスに産するところから「氷の化石」と呼ばれていました。
水はつねに流動してやまないのに対し、氷は固く固定的である。雪はすぐ融けるのに対し水晶は不変である。水、雪は一つ一つの善悪の行為をさし、氷や水晶は生命の性分をさしておられます。行為の一つ一つは終われば消滅するが、それを重ねると、生命の不変的な性分となることを教えられているのです。
「悪」の行為も、その一つ一つは消えていく。しかし、それが積もり積もっていけば、やがて地獄の報を受けることは疑いない。逆に「善」をたゆまず積み重ねることによって、仏の大果報を得ることを教えられています。この「善」とは正法の実践であることはいうまでもありません。
「女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる」とは、女性について、古来、そのように考えられていたのを用いられたのでありましょう。能の「道成寺」も、安珍を恋うた清姫がその思いをつのらせたあまり大蛇となった物語を扱っています。
「女人となる事は物に随って物を随へる身なり。夫(おとこ)たの(楽)しくば妻もさか(栄)ふべし。夫(おとこ)盗人ならば妻も盗人なるべし」
(兄弟抄 九八七)
【現代語訳】
「女性というのは物に随って、物を随える身であります。夫が楽しめば、妻も栄えることができ、反対に夫が盗人ならば、妻も盗人となるのです。これはひとえに、今生だけのことではない。世世・生生に、影と身と、花と果実と、根と葉のように相添うものなのです」
女性は「随って随える身」であるとの仰せです。この生き方が、女性の生き方であり、女性の特性をいかんなく発揮することになるのであります。日蓮大聖人は、この兄弟抄のほか、諸御書の中でこのことを教えられている。 「随う」「随える」というこの相反する一念の作用は、本来本有(ほんぬ)のものであり、個人によって差はあるにしても、全ての女性に内在しているものである。 フランスの詩人ミュッセが「女は服従するように見せかければ見せかけるほど、主権を握れることをよくわきまえている」と語っているのは、このことが洋の東西を問わない不変の真理であることを物語っているといえましょう。
夫婦の関係も昔と変わりつつある昨今、男女ともに働く世の中であれば、男女平等との思いから、女性が別姓を求めるケースも増えつつあります。夫婦別姓が法律的に認められるのは時間の問題ともいわれています。
このように一見すると男女の同化が進んでいるようですが、男女それぞれが有する個性というものは、基本的に変わりは無いのではなかろうかとおもいます。もちろん男性に子どもは生めない。でも生まれたならば、夫婦協力して育てていくべきは、いつの世にも変わりはありません。その時にあって、主導権を握るのは女性であるし、子どもの病気などの異変にも敏感です。その上家計のやり繰りも、得てして女性の方が上手です。
かくして、か弱い女性のイメージの中から、妻はいつの間にか夫を手なづけ、リードしていく役回りを担う。「女人となる事は物に随って物を従える身」とは、この事ではなかろうかと思われます。
妻の助力によって夫が仕事に打ち込めれば、恩恵は妻に返ってくる。逆に夫が力を発揮できなければ、妻も楽しい思いにはなれません。
そのように、夫婦は相手に無いところを補い合い、影と身、花と果実、根と葉とのように、堅い絆で結ばれているのです。これは三世の生命観から今生のみならず、世々生々、いつの世も変わらないとの仰せであります。
「をとこ王なれば女人きさき(后)となる。をとこ善人なれば女人仏になる。今生のみならず。後生もをとこによるなり」
(さじき女房御返事 一一二五)
【現代語訳】
「夫が王であれば妻は王妃となります。夫が正法をたもつ善人であれば、妻も成仏できるのです。今生だけでなく後生も夫によるのです」
「をとこ善人なれば女人仏になる」の善人とは世間一般にいう善人ではなく、この場合、法華経、即ち三大秘法の御本尊を信受し信行学に励む人のことをいわれているのです。
夫が純粋な信心に励むならば、その妻も必ず夫に従って信心を深め成仏することができます。それは今生のみではなく後世も同じ方程式であるということです。夫婦そろって信心に励む家庭に大聖人からたまわったお手紙は御書の中に数多くあります。この文も妙法によって描かれた夫婦論と拝することができます。それは主従関係でなく、信頼関係をいわれているのです。
我々は信心によって得た功徳の現証として一家和楽の姿を挙げることができます。親子兄弟とそれぞれ立場は違っても、妙法を根本にして大きな目的観に貫かれた家庭は仲良く団結し、外からの障害にも強く、社会に対してもそれ自体価値創造していけるでしょう。
この一家和楽の姿も、夫婦二人の単位から出発するものであり、夫婦仲の良いところに健全な家庭も築かれていくのです。」
「此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に、功徳として来たらざる事なく、善根として動かざる事無し」
(聖愚問答抄 下 四〇八)
【現代語訳】
日蓮大聖人の弟子信徒が、日蓮大聖人の御本尊のもとで修行して受ける事の出来る功徳については数限りがありませんが、その要旨をしぼって申し上げますならば、左記の事を申し上げることが出来ます。
第一には信徒各位の願いや諸願を成就することが出来るという事であります。
第二には一切衆生が等しく即身成仏を成就することが出来るという事です。
第三には衆生の病を克服する事が出来るという事です。
第四には災いを転じて幸いに転換できるという事です。
第五に強調したい事は、福徳無量という事です。
皆様はこうした日蓮大聖人の御教示を確信し、大切にして、真の日蓮大聖人への信仰を力強く実践しましょう。
そうして家族親族の全員の幸福を実現して参りましょう。
折伏に当たっては、大御本尊様の広大無辺なる功徳について、絶対的確信を持って法を説くことが肝要なのであります。この揺るぎない確信のもとに法を説くところに、相手は心を動かし、入信に至るのであります。(大白法より引用しました)
「日蓮尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母(ぶも)仏になり給う。 上七代下七代、上無量生(しょう)下無量生の父母等存外に仏となり給う」
(盂蘭盆御書 一三七七)
厳しい暑さとともに、盂蘭盆の時期を迎えました。
盂蘭盆の行事は、釈尊の弟子目連が、死後に餓鬼道に堕ちて苦しんでいる母を救おうとしたことに由来します。
目連の母が餓鬼道に堕ちた原因は何だったのだろう。それは生前、ものをむさぼり惜しんだ(貪欲)罪によるものだったという。そこで目連は釈尊の教えにのっとり、十方の聖僧を招き、母に成り代わって供養をしたことで、母の一劫にわたる苦しみを取り除いたという。
無縁社会と言われる現代にあって、日ごろ自分自身が生きていくことにも、汲々としている人が多い。(ワタクシもその一人です) 人や社会のおかげによって、生かされていることを忘れていないだろうか。そう考えると、決して無縁の世の中とは言えないはずです。
そして今ある自分一個も、両親や兄弟、さらには亡き先祖があればこその自分の存在です。
盂蘭盆の行事は、このような因縁で結ばれた自己の存在を考え直す大切な機会ではなかろうか。親の恩を思い、先祖のお陰を思い、恩返しができないかと考えるところに、自分の生き方にも新たな意義が生まれてきます。 我が身の損得しか考えないところに、餓鬼道に堕ちた目連の母の苦しみがあることに気づかなくてはなりません。
日蓮大聖人は、「父母に御孝養の意(こころ)あらん人々は法華経を贈り給ふべし」(御書一五〇六頁)と仰せです。 法華経の題目を送って亡き精霊を回向することが真の報恩となり、我が身にも福徳を積めることを信じたいものです。
(一部分護国寺WEBサイトから引用)
「得具五眼(とくぐごげん)とは一には肉眼、二には天眼、三には慧眼(えがん)、四には法眼、五には仏眼なり。此の五眼をば法華経を持(たも)つ者は自然に相具(あいぐ)し候」
(四条金吾釈迦仏供養事 九九二)
【現代語訳】
「五眼とは一には肉眼、二には天眼、三には慧眼、四には法眼、五には仏眼をいうのである。 法華経を持(たも)つ者には、この五眼が自然に具わってくるのである」
五眼とは、 (1) 肉身の所有している「肉眼 (にくげん) 」(2) 色界の天人が所有している「天眼 (てんげん) 」(3) 二乗の人が一切の現象は空であると見抜くことのできる「慧眼 (えげん) 」(4) 菩薩が衆生を救うために一切の法門を照見するところの「法眼 (ほうげん) 」(5) 仏陀の所有している,前記の四眼をすべてそなえた「仏眼 (ぶつげん) 」をさす。
「根ふかければ枝さかへ、源(みなもと)遠ければ流れ長しと申して、一切の経は根あさく流れちかく、法華経は根ふかく源(みなもと)とをし、末代悪世までもつき(尽)ずさか(栄)うべしと天台大師あそばし給へり」
(四条金吾殿御返事 一三九一)
【現代語訳】
「樹は根が深ければ枝ぶりがさかんとなり、川は源が遠ければ流れは長い。この譬えのように、法華経以外のいっさいの経々は、根が浅く、流れは近い。それに対し、法華経は、根は深く源は遠い。故に末法悪世までもつきることなく栄え、流布していくと天台大師はいわれている」
「根ふかければ枝さかへ、源(みなもと)遠ければ流(ながれ)長し」の有名な文を引いて、法華経は根が深く源が遠いゆえに、必ず末法に広宣流布すること、その信心を貫くには幾多の難が競い、最後までやり通す人は稀であるが、それに耐えて信心を貫いた人は、絶大な功徳があることを示され、四条金吾の信心を励まされている。
法華経は、その教相の上からいえば、仏の五百塵点劫という久遠の過去の成道(じょうどう)を明かしている。これほど遠い源にさかのぼって説き明かした経は、ほかにはない。生命論の上からいえば、生命の奥底に英知の光を射しこみ、その深い根源を明らかに示している。これまた、他のいかなる経にもない深い真理を解明したのである。
明かされた真理が深いということは、いかなる時代、社会にあっても、人々に知恵の源泉を与え、人生を生きるための力になるということである。浅い哲理は、ある限られた状況のもとでしか効用をもたない。深い哲理は永遠性と普遍性をもつ。この深いというのは、現象次元にとらわれるのでなく、あらゆる現象を起こさせている実体に肉薄しているということである。
しかしながら、釈迦の法華経は、まだ五百塵点劫という有限の過去までしか掘りさげておらず、そこに明かしているものも、生命の実体に対する説明であって、実体そのものではない。日蓮大聖人の仏法においてはじめて、久遠元初という無始永遠の法が明かされ、その実体が確立されたのであり、故に、大聖人の仏法は、末法の濁世(じょくせ)にあって、万年の外(ほか)尽未来(じんみらい)まで広宣流布していくのである。
また、この文を個人の生命活動に約して読めば、根を深くおろし、源を遠くさかのぼるということは、生命の根本的実体である南無妙法蓮華経に立脚するということである。それによって「枝さかえ」とは、自己の能力を存分に発揮し、人生を充実して生きることであり、「流(ながれ)長し」とは、未来にまで尽きない福運を積んでいけることである。
「金(こがね)はやけば弥(いよいよ)色まさり、剣(つるぎ)はとげば弥(いよいよ)利(と)くなる。法華経の功徳はほむれば弥(いよいよ)功徳まさる」
(妙密上人御消息 九六九)
(通解)
「金(きん)は、焼けばいよいよ色が良くなり、剣は、研(と)げばいよいよ良く切れるようになる。(同じように)法華経の功徳を讃(たた)えるなら、ますます功徳が勝(まさ)っていく。(法華経)二十八品は、讃える言葉が多くあることを、心得ていきなさい」
此の御文は、建治二年(一二七六年)閏(うるう)三月五日、日蓮大聖人が五十五歳の時に身延で執筆され、妙密上人に送られた御手紙の一部です。
妙密上人は鎌倉に住む門下で、夫妻で何度も大聖人にご供養の品を送っていました。
大聖人は、ご供養を重ねた妙密上人の信心の功徳は、とても大きく、必ず諸天が守ると励ましを送られています。
この御文では、金(きん)は焼いて不純物を除くことで輝きを増すこと、剣(つるぎ)は研ぐことでより切れ味が鋭くなっていくことを説かれています。
これと同じように、法華経の功徳は、ほめ称(たた)えていけば、いよいよ大きくなっていくとつづられています。
仏法の最高の経典である法華経は、二十八の章(二十八品(ぽん))で構成されています。
「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為(せ)せり。此の五字の内に豈(あに)万戒の功徳を納めざらんや。但し此の具足の妙戒は一度持(たも)って後、行者破らんとすれども破れず。是を金剛法器戒(こんごうほうきかい)と申しけんなんど立つべし」
(教行証御書 一一〇九)
(通解)
「この法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字としたものであるから、この五字の内にどうして万戒の功徳を納めていないことがあろう。この万行万善の妙戒は、一度持てば、後に行者が破ろうとしても破ることができないのである。これを金剛宝器戒という、などと言うがよい」
「真実の戒は法華経本門の肝心である妙法蓮華経の五字を持つことであり、これこそ金剛宝器戒であると主張せよ」と仰せになっている。
「法華経の本門の肝心・妙法蓮華経」とは、法華経寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経、その究極は日蓮大聖人御図顕の御本尊である。
三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり」と仰せになっているのは、観心本尊抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(二四六㌻)の御文と同趣旨である。
釈尊はもとより、三世十方の諸仏のあらゆる善行、功徳は、ことごとく寿量文底の南無妙法蓮華経、すなわち御本尊様に含まれているのであり、三世十方のあらゆる仏は、この妙法受持という戒によって仏になったのである。言い換えれば、三世十方の諸仏のそなえている功徳とは、この妙法から生じたものなのである。
「法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり。十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり」
(千日尼御前御返事 一二九〇)
(通解)
「法華経を供養する人の功徳は、十方の仏、菩薩を供養する功徳と同じである。十方の諸仏は妙の一字から生まれたからである」
法華経は一切の仏の能生の根源であるがゆえに、法華経を供養する功徳は、十方のあらゆる仏を供養する功徳に等しいことを述べられている。
「妙の一字の智火以て此(か)くの如し。諸罪消ゆるのみならず、衆罪かへりて功徳となる。毒薬変じて甘露(かんろ)となる是(これ)なり」
法華経の変毒為薬の功徳を述べられている。法華経の結経である普賢経に「衆罪(しゅざい)は霜露(そうろ)の如く、慧日(えにち)は能(よ)く消除(しょうじょ)す」と、過去遠々劫(おんのんごう)からの罪障を消滅する功徳を説いている。あらゆる罪業のなかで最も重く深いものは法華誹謗である。その他の罪はこれに較べれば物の数ではない。その法華誹謗の罪を消すのは、法華経を信ずる以外にない。いわんやその他の衆罪は太陽の光にあたった霜露のように、たちまちに消すことができるのである。
「法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり」
(唱法華題目抄 二二九)
「法華経の肝心である方便品・寿量品の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字に収まっている」
天台大師は、法華玄義十巻を著わされ、第一の巻には略して妙法蓮華経の五字の趣旨を述べられた。第二の巻より七の巻に至るまでは、また広く妙の一字を述べられた。八の巻より九の巻に至るまでは法蓮華の三字を解説され、第十の巻で経の一字を述べられた。経の一字に華厳・阿含・方等・般若・涅槃経を収めている。
妙法の二字は、法華玄義では百界千如・心仏衆生の法門であり、摩訶止観十巻では一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生・三無差別と立てられた。
「一切の諸仏菩薩・十界の因果・十方の草木・瓦礫等で、妙法の二字でないというものはない」と仰せです。
「されば一遍此の首題を唱へ奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれて爰(ここ)に集まる時、我が身の法性の法(ほう)報(ぼう)応(おう)の三身ともにひかれ顕はれ出づる、是を成仏とは申すなり。例せば籠(かご)の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、是を見て籠の内の鳥も出でんとするが如し」
(衆愚問答抄 下 四〇六)
(通解)
「それゆえ、一遍この妙法蓮華経を唱え奉るならば、一切衆生の仏性が皆呼ばれて、ここに集まる時、我が身中の法・報・応の三身もともに引かれて顕れ出る。これを成仏というのである。
たとえば、籠の中にいる鳥の鳴く時、空を飛ぶ多くの鳥が同時に集まる。これを見て、籠の中の鳥も出ようとするようなものである」
南無妙法蓮華経と唱えることによって、自己の生命の内外ともに仏性が涌現し、即身成仏することを説かれています。
妙法の五字は、先に述べられたように、十方世界のあらゆる衆生の仏性、法性であるから、私達がひとたび御本尊様に向かって、妙法を唱えると、一切衆生が皆よばれて題目を唱える私達の所に集まってまいります。そして、それに呼応して、我が身の法性にそなわっている法報応の三身も、顕れ出るのであり、そのことを「成仏」という、と仰せです。
まず、「成仏」について「我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる」といわれているように、我が身の内にある法性(仏性)が顕れ出ることであると述べられておられます。その法性(仏性)には法・報・応の三身がそなわっているから、結局、成仏とは、我が身の内にもともと可能性として有していた法・報・応の三身が、御本尊に向かって妙法の題目を唱える時に、顕現することをいうのです。
この成仏観は、それまでの仏教、すなわち爾前経を根本として説かれてきた成仏の考え方を根本から変革するものです。
小乗教では、凡夫・二乗は絶対に仏にはならず、相当の修行を積んでも、阿羅漢にしかなれないと説き、衆生と仏の間に断絶を設けています。つぎに、権大乗教では、菩薩が長年にわたる修行(歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう))を積んで、四十一位・五十二位等の位階を順々に踏んで次第に仏に成っていくと説いています。
これに対して、法華経は即身成仏の原理を説き、凡夫の身に即して成仏することを明かすのですが、この法理をたんなる法理に止めず、真に凡夫をして即身成仏させる仏法が、日蓮大聖人の法華経寿量文底下種の南無妙法蓮華経です。すなわち、妙法を信受することにより、凡夫の身を改めず、直ちに仏果に至ることができるのです。
まことに、ありがたい仏法といわねばなりません。
( 普賢文庫 形式: Kindle版より一部抜粋引用)
「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば凡身即ち仏身なり。是を天真独朗の即身成仏と名づく」
(法華本門宗血脈相承書 (本因妙抄) 一六七九)
仏教では生まれながらの凡庸(ぼんよう)な人間のことを「凡夫(ぼんぷ)」と言い、その凡夫の心を「凡心(ぼんしん)」と言います。
また八万四千とも言われる無数の煩悩によごれた命を「煩悩身」と言い、仏の命を持った即身成仏の人命を「仏身」と言います。
法華経の極理で、根本の大法である久遠元初の妙法蓮華経の大法に帰依し、信受して唱題に励むと、どんな人でも過去世の宿業や、謗法の罪障を消滅し、身心を磨き、凡身を仏身へと転換する事が出来るのです。 何とすごい事ではありませんか。
日蓮大聖人は人間の生命を磨き、全ての人々の身を仏身へと導く為に此の世に出現せられたのです。
御本尊様を信じて南無妙法蓮華経と日夜朝暮に勤行唱題をやりぬけば、いかなる宿業の重い人でも、謗法の罪障の深い人でも、全ての人が仏身を成就することが出来ると御教示下さっています。
ここで「天真独朗の即身成仏」と言われている意味は、我ら本未有善の荒凡夫が、妙法蓮華経を信受し、題目を唱えることによって、無作本有(ほんぬ)の姿のままで即身成仏すること、すなわち衆生が凡夫の身を改めることなく、そのまま仏身を成ずることができると仰せられているのであります。
私どもは、かくの如き広大無辺なる妙法の功徳を覚知するとともに、この功徳を自分一人だけに止とどめるのではなく、広く世間の人々に伝え、下種し折伏を行じていくことが肝要であり、今、宗門にとって最も必要なことであります。
(大白法 平成27年2月16日刊(第903号)より転載)
「日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経と唱(とな)えさすべし。名は必ず体にいたる徳あり」 (十章抄 四六六)
「日本国の在家の者は、ただ一向に南無妙法蓮華経と唱えるべきである。名は必ず体にいたる徳がある」
なぜなら、妙法蓮華経は法華経の名であるが「名は必ず体にいたる徳」があるからである。つまり、妙法蓮華経の名に、法華経全体の功徳が収まっているのである。
世親は法華論で、法華経の名として十七種類の名を挙げているが、これらはことごとく通名すなわち一般的名称にすぎず、真実の別名は、三世の諸仏により名づけられた南無妙法蓮華経である。したがって、三世の諸仏は仏に成る因位の行のときに、止観を行じて一念三千を観法し、口に南無妙法蓮華経と唱えたのであり、題目を唱えることこそが円の行なのである。
名は必ず体……三世の諸仏皆南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり
この御文は、なにゆえに南無妙法蓮華経と唱えるだけでよいのかということは、多くの人の抱く疑問である。
この疑問への答えとして「名は必ず体にいたる徳あり」と述べられている。寂日房御書では「一切の物にわたりて名の大切なるなり、さてこそ天台大師・五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり」(九〇三㌻)と仰せである。すなわち、一切の物に関して「名」が最も大切であるのは、「名」のなかにその物の特色や特徴、徳用などが収められているからである。
法華経についていえば、妙法蓮華経の五字からなる題号のなかに、法華経二十八品のすべての功徳が収まっているのである。
「日本と申す二つの文字に、六十六箇国の人畜・田畠・上下・貴賎・七珍・万宝一つもかくる事候はず収めて候。其のごとく南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字一字ももれ(漏れ)ずか(欠)けずおさめて候」
(六難九易抄 一二四三)
「日本という二つの文字に、六十六か国の人畜、田畠、上下、貴賎、七珍万宝が一つも欠けることなく収まっています。 そのように、南無妙法蓮華経の題目の中には、法華経一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字が一字ももれず、欠けずに収まっています」
それゆえ、「経には題目が大事であり、仏には眼が大事である」と白楽天も述べられています。妙楽大師も法華文句記巻八に「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」と釈されています。その意味は、略して経の名だけを挙げても、そのなかに法華経の全体を収めているという文です。
一切のことにつけても、所詮、肝要ということがあります。法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目です。したがって、朝夕唱目を唱えるならば、正しく法華経一部を真読されていることになるのです。二遍唱えることは二部、百遍は百部、千遍は千部読むことになり、このように、怠りなく唱えるならば、怠りなく法華経を読む人であります。
「法華経を信ずる者は、設(たと)ひ臨終の時、心に仏を念ぜず、口に経を誦せず、道場に入らずとも心無くして法界を照し、音(こえ)無くして一切経を誦し、巻軸(かんじく)を取らずして法華経八巻を挙(にぎ)る徳之(これ)有り」
(守護国家論 一三八)
「法華経を信ずる者は、たとい臨終の時に心に仏を念じなくても、口に経文を誦さなくても、身を道場に入れなくても、意識しないで法界を照らし、声に出さなくても一切経を誦し、経巻の軸を取らなくても法華経八巻を握る功徳がある」
法華経を信ずる者の功徳とは、臨終の時に、心に仏を念じなくとも、口に経を声を出して読まなくとも、修行の道場に入らなくとも、「心無くして」すなわち、意識的に観法で求める心がなくとも、法界を照らすことができるのであり、音声無くして一切経を読み、経巻を手に取らなくても法華経八巻を手に握っていることになるという功徳である。
「定業(じょうぎょう)の者は薬変じて毒となる。法華経は毒変じて薬となると見えて候」 ( 四条金吾殿御返事 一二九一 )
定業の者とは本来、決定された宿業をもつ者という意味であるが、ここでは宿業によって寿命が定まっている者、あるいは寿命の差し迫っている者という意味で用いられている。不治の病にかかり、寿命が尽きたときには、いかなる良薬、医療の限りを尽くしても快方に向かうことはない。薬を施しても、それは逆に患者の寿命を縮める「毒」にしかならないのである。薬が毒に変化するということよりも、定業の者に対しては薬がすでに役に立たなくなっており、宿業の転換が難しいことを教えている。
法華経は、この〝定業〟そのものを転換する。したがって、生命を縮める働きをするはずの毒でさえも、毒としての働きはしないで、かえって生命を守る薬の働きをしてしまうというのである。
さらに「毒変じて薬となる」という「薬」とは身体の病気を治す薬にとどまらず、生命それ自体の病を治す薬である。すなわち、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)や慢(まん)・疑(ぎ)などにより、不幸を感ずる生命は、仏法の眼からみれば病にかかっている生命である。
だが、この貪瞋癡等の煩悩は、生命を不幸に陥れる「毒」であるが、一方、考えてみれば、欲望がないかぎり生命活動はありえない。というより、生命が活動するのは欲望の存在の故であるともいえよう。したがって「毒」をなくすこともできないのである。
法華経においては、その煩悩がよって起こる生命の実体を明らかにし、煩悩は本来滅すべきものではないとする。すなわち煩悩即菩提、生死即涅槃の原理により、毒をそのまま薬と変えていくのである。煩悩は毒をもたらすものであるが、と同時に仏界を根本にしていけば正しい生命活動をもたらすエネルギーともなっていく。この原理を「毒変じて薬となる」というのである。
法華経の凄さが此処に現わされています。
「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となって仏になるべきなり」
(法華初心成仏抄 一三一六)
「とにもかくにも法華経を強いて説き聞かせるべきである。信ずる人は仏になり、謗ずる者は毒鼓(どっく)の縁となって仏になるのである」
「毒鼓の縁」の毒鼓とは、毒薬を塗った太鼓のことで、涅槃経に「雑毒薬(ぞうどくやく)を以って用いて太鼓に塗り、大衆の中に於いて、之を撃ちて声を発(いだ)さしむるが如し。心に聞かんと欲する無しと雖(いえど)も、之を聞けば皆死す」とあることによるもので、そこから、法を聞いて信ぜずに反対しても、その縁によって煩悩を断じて得道できることをいう。
末法の一切衆生に対しては、南無妙法蓮華経を強いて聞かせて、仏種を植える以外にはないのである。
「さて此の経の題目は習ひ読む事なくして大なる善根にて候」
(六難九易抄 一二四四)
「法華経の題目は、その意味を理解して唱えなくても、ただそれを信じて唱えるだけでも大いなる善根となる」たとえ悪人であっても、畜生であっても、地獄の衆生であっても、十界の衆生は皆ことごとく、妙法の力によって即身成仏できると説かれています。
それはちょうど、水の底に沈んだ石でも、それをこすれば火をおこし、百千万年の間、闇に閉ざされていた場所でも、ひとたび灯火を点ずれば明るくなるようなものである。世間の事柄でさえ、このような不思議なことがある。ましてや仏法の不思議な御法力においては、なおさらである。我ら衆生の悪業・煩悩・生死果縛の身が、正・了・縁の三因仏性によって、即、法・報・応の三身と化すことは疑いのないことである。よって伝教大師も『法華秀句』に、竜女の即身成仏を讃歎して『妙法の経力をもって即身に成仏する』と述べられているのである。すなわちその意味は、妙法の経力によって、蛇身の竜女もその身を改めずして成仏したということである。これは全く疑いのないことである」
と仰せられているのであります。
(大白法・平成26年5月16日刊(第885号)より転載)
「病とは謗法なり。 此の経を受持し奉る者は病即消滅疑い無きなり」
(就註法華経口伝(御義口伝)下 一七八七)
薬王品の御文は、釈尊滅後、末法の衆生のために説かれたものでありますから、病とは何かと言えば、謗法のことであると仰せられているのです。
法華経を受持する者は「病即消滅」の功徳、疑いなしとおっしゃっているのでありますが、『太田左衛門尉御返事』には、「然るに法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり。されば経に云はく『此の経は 則為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人 病 有らんに是の経を聞くことを得ば病即消滅して不老不死ならん』等云云」(同 一二二二㌻)とあります。
「師子吼」というのは師子が吼える声のことです。師子は百獣の王で、ひとたび吼えれば、百獣を圧すると言われております。これは、仏を師子に譬えて、仏様の説法を師子吼と言うのです。つまり、南無妙法蓮華経は師子吼のようなものであり、いかなる病
も障り、すなわち邪魔をすることができないとおっしゃっているのです。
今日、様々な病があります。身の病、心の病などたくさんありますが、この病を根本から治すのは妙法蓮華経であるということを、私達はしっかり心に刻んで、仏道修行に励むことが肝要であろうと思います。
(大白法・平成28年11月1日刊(第944号)より転載)
「されば其の身は無知無行にもあれ、かみをそり、袈裟をかくる形には天魔も恐れをなすと見えたり」
(出家功徳御書 一三七一)
「その身は無智無行であっても、髪を剃り、袈裟をかける僧の姿には、天魔も恐れをなすと経文には出ている」すなわち大集経に「頭を剃り袈裟を著れば、持戒の者はもちろん、たとえ戒を破る者でも天人は供養する。すなわち、それは仏を供養する事になるからである」と説かれている。