『なにとなくとも一度の死は一定(いちじょう)なり。いろ(色)ばしあく(悪)して人にわらわ(笑)れさせ給うなよ』
(兄弟抄 九八二頁)
【現代語訳】
『これということがなくても、一度は死ぬことは、しかと定まっている。したがって、卑怯な態度をとって、人に笑われてはならない』
生きとし生けるものが、もっとも恐れるのは死であります。これは、あらゆる生物の、生存本能ともいえましょう。
だが、いかなる人も、動物も、虫も、さらには植物も、永遠に死なないものは絶対にありません。したがって、大事なことは、死から逃れようと努力することよりも、いかに人生を生きて死を迎えるかということです。
この、人生いかに生くべきかの根本問題に明快な答えを出したものが仏法であります。ゆえに最高哲理の妙法を受持し、一歩も退くことなく、妙法の信心を貫き通した人生が、最高に意義ある人生であるといえます。
むしろ、死を賭(と)し、生涯をかけて求めるべきものが妙法であり、過去の真実の哲人、賢人が求め抜いたものも、また、妙法であります。この折角の妙法の珠を抱きながら、目先の利益や命の惜しさに負けて、妙法の珠を捨てることは、本末転倒であり、愚かしい行為といえましょう。これを「いろ(色)ばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ」と申されているのです。
『釈迦如来の御ためには堤婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくなす(成す)ものはかたうど(方人)よりも強敵が人をばよくなしけるなり』
種々御振舞御書 一〇六三頁
(解説)
釈迦如来の為には提婆達多(だいばだった)こそ第一の善知識ではなかったか。
今の世間を見ると人を良くするものは味方よりも強敵が人をよく大成させたのである。
『されば仏になるみちは善知識にはす(過)ぎず。わがちゑ(知慧)なににかせん。
ただあ(熱)つきつ(冷)めたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たいせち(大切)なり。
(三三蔵祈雨事 八七三)
【現代語訳】
それゆえ仏になる道は善知識に勝るものはない。我が智慧が何の役に立つだろう。ただ熱さ寒さを知るばかりの智慧だけでもあるならば、善知識が大切である。
『悪知識と申すは甘くかたらひいつわ(詐)りこ(媚)びことば(言)をたく(巧)みにしてぐち(愚痴)の人の心を取って善心を破るという事なり』
(唱法華題目抄 二二四頁)
【この文の趣旨】
悪知識というのは、甘く語らい、いつわり、媚び、言葉を巧みにして、愚かな人の心を奪って善心を破るということである。
『日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつた(伝)ふるなり。未来もまたしかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし』
(諸法実相抄 六六六~六六七頁)
【現代語訳】
はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人、三人、百人と次第に唱え伝えてきたのである。 未来もまたそうであろう。これこそ地涌の義でないだろうか。そればかりか広宣流布のときは、日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするようなものである。 ともかくも法華経に名を立て身を任せていきなさい。
『抑も(そもそも)仏法をがく(学)する者は大地微塵(みじん)よりをほ(多)けれども、まとに仏になる人は爪上(そうじょう)の土よりもすくなし』
三沢抄 一二〇二頁
「解 説」
仏法を学ぶ者は大地微塵よりも多いけれども本当に成仏を遂げる者は爪上(そうじょう)の土よりも少ないと涅槃経に説かれていることを挙げられ、仏道修行の難しさを示されています。
これは、あたかも現在の創価学会員のことを言い表した御文と拝すことができます。かつては、御法主上人猊下を仏法の師と公言していた池田大作と創価学会が、現在、御法主上人猊下を悪口(あっく)罵詈(めり)し、正法に敵対する姿こそ、本抄に仰せの第六天の魔王が「行者ををどす」姿そのものであるといえましょう。
今こそ地涌の眷属たる我等は、創価学会の邪悪な謬義(びゅうぎ)を摧破(さいは)し、日本および全世界の民衆を破滅と塗炭(とたん)の苦しみから救うべく、立ち上がらねばなりません。
御法主上人猊下のもと、不惜身命の信心を根本に、いかなる大難をも恐れず、折伏・再折伏、そして教学の鍛練に勇猛精進してまいりましょう。
(大白法・平成7年2月1日刊(第425号より転載)御書解説(22)―背景と大意)
『それ(夫)人身をう(受)くる事はまれなり。すで(已)にまれなる人身をうけたり。
又あ(値)ひがた(難)きは仏法、是又あへり。同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる。結句題目の行者となれり。まことにまことに過去十万億の諸仏供養の者なり。
(寂日房御書 一三九三頁)
『法華経の法門を一文一句なりとも人にかたらんは過去の宿縁(しゅくえん)ふかしとおぼしめすべし』
(椎地四郎殿御書 一五五五頁)
【現代語訳】
『法華経の法門を一文一句でも、人に語るのは過去の宿縁が深いと思いなさい。』
法華経の本門を一文一句でも語っていく宿縁の深さを教えられています。
大聖人はまず方便品の文を引かれます。
これは、釈尊が唯一の仏道をすべての人に教えたけれども人々は反発して正法を聞き入れないこと、しかしながら、正法を聞かない衆生は救済できないことを述べられた経文です。正法以外に成仏の道はありません。それゆえ、釈尊のみならず、すべての仏は、あらゆる手立てを尽くして正法を説き聞かせるのです。
『外道悪人は如来の正法(しょうぼう)を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。「師子身中の虫の師子を食(は)む」等云々。大果報の人をば他の敵やぶりがたし。親しみより破るべし』
「佐渡御書 五七九頁」
【現代語訳】
『外道や悪人が、如来が説いた正法を破るのは、難しいことです。かえって、仏弟子の悪僧たちが、必ず、仏法を破っていきます。
蓮華面経に、「獅子身中の虫が、師子を内から食い尽くす。」等と、云われている通りです。
同様に、大果報を受けている人を、外敵が破っていくのは、難しいことです。
かえって、内なる敵によって、破られていくものであります。
この佐渡御書は、文永九年(1272年)三月二十日にご配流先の佐渡で述作された御書です。(聖寿五十一歳御著作) 弟子檀那等に与えられた御書です。