11月


1日

「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし。若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば、豈(あに)日蓮が弟子檀那地涌の

流類(るるい)に非ずや」

(諸法実相抄 六六六)

 

「地涌の菩薩の先駆けは日蓮一人である。あるいは、地涌の菩薩の数に入っているのかもしれない。もし、日蓮が地涌の菩薩の数に入っているならば、日蓮の弟子檀那は地涌の流類ということになろう」

 

本抄は、文永十年(一二七二年)五月十七日、大聖人様が五十二歳の御時、佐渡の一谷(いちのさわ)において認(したた)められた御書です。

妙法を弘め大漫荼羅本尊を顕わす大聖人様には、尊い御内証が存することを示され、大聖人様を迫害する者の罪の重さと、大聖人様を供養し、また弟子檀那の縁を結ぶ功徳を対比して、大聖人様に信順することの大切さを示されています。

 

(大白法・平成7年5月1日刊 第431号より一部分転載)


2日

「いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとを(通)り、日蓮が一門とな(成)りとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」

(諸法実相抄 六六六)

 

 これは最蓮房に与えられた有名な御書ですが、この御文について、今、私たちの立場から考察してみたいと思います。

 この御文を、今の私たちの立場にあてはめて拝すれば次のようになります。

「このたび信心をすることになりましたが、この日蓮正宗の信徒となりましたからには、生涯、大聖人の一門として信心を貫いてください。大聖人に同意ならば、地涌の菩薩と言うべきでしょう(趣意)」

 私たちは、創価学会を脱会した人も、もともとの法華講員も、大聖人が仰せの「法華経の行者」すなわち日蓮正宗の信徒です。これは、私たちが地涌の菩薩の流類であることの大前提です。

 そして条件が二つあります。一点は、「とをす」すなわち生涯信心を貫くということです。もう一点が、「日蓮と同意」ということです。

 私たちが入信する時は、御法門についても修行についてもほとんど何も知りません。ただ、謗法を捨てる、正法を持つということをお誓いするだけです。

 しかし、「日蓮と同意」ということになると、信行学のすべてに、かなりの点まで達していなければならないことになります。自ら信行学に精進するのみならず、邪義を破折し、衆生を折伏し、救済していかなければなりません。

 また、行学に未熟な人を激励したり、曲がった考えの講員を教導したりもしなければなりません。

 特に、大聖人が流罪・死罪をものともせず、敢然と鎌倉幕府の執権や連署(れんしょ)を破折されたように、命がけで折伏する勇気が求められます。

(大白法・平成18年8月16日刊  第699号より一部分転載)

 

 


3日

「日蓮は法華経の行者なる故に、三類の強敵あって種々の大難にあへり。 然るにかヽる者の弟子檀那とならせ給う事不思議なり。定めて子細候らん。 相構へて能く能く御信心候ひて、霊山(りょうぜん)浄土へまいり給へ」

(弥源太殿御返事 七二二)

 

本抄は、北条弥源太殿が、自身の当病平癒(とうびょうへいゆ)の御祈念のために、大聖人に刀を二振り御供養されたことに対して、文永十一(一二七四)年二月二十一日、佐渡配流中の大聖人様が認したためられたものです。

 

法華経の行者であるが故に三類の強敵(ごうてき)による大難に敢(あえ)て遭われているのであることを御教示されます。そして、その行者たる大聖人様の檀那となった弥源太殿に対して、因縁の不思議を述べられ、ますますの信心倍増の激励をされています。

 

「日蓮は法華経の行者なる故に、三類の強敵あって種々の大難にあへり」 と、法華経の行者であるが故の大難であると示されます。

 そしてこれは、他が具(そな)えない勝れたもの を持つ者は、それを奪われたり怨嫉されたりするように、法華経の行者は、成仏できる最高の法を持(たも)ち弘めることから、三類の強敵がそれを妨げようと引き起こす大難であると明かされます。

 

 大聖人様は本抄において、  「身命を失ふ事、併(しか)しながら心より出づれば僻人なり」 と、相手を真に思うが故に、その相手から危害を加えられても諌言していくという覚悟を披瀝され、衆生を真に救っていかれようとする御本仏の大慈大悲を、謙遜(けんそん)の言をもって示されています。

 

 しかしながら、三毒強盛な凡夫である私たちには、通常、そのような深い慈悲心など、自身の中に存在しません。ただしこれは、真剣な唱題によって御本尊に境智冥合するときに、仏性として顕れてくるのです。よって折伏には、真剣な唱題が欠かせないのです。

 

 私たちは、大聖人様が『阿仏房尼御前御返事』に、  「仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにく憎むべし。よし、にくまばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし」(御書 906頁) と仰せのように、怨嫉を受け止めることのできる潔(いさぎ)よい信心に住して、ひたすら大聖人様の御金言のままに、果敢なる折伏を行じることが肝心です。そして、この怨嫉を恐れない潔い信行は、不自惜身命の覚悟において、初めて可能となるのです。

 

(大白法・平成13年5月1日刊 第572号より一部分転載)


4日

「極楽百年の修行は穢土(えど)の一日の功(こう)に及ばず。 正像二千年の弘通(ぐつう)は未来の一時に劣るか。 是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむるのみ」                         (報恩抄 一〇三六)

 

極楽浄土での百年の修行の功徳は、汚れたこの国土での一日の修行の功徳に及ばない。正法、像法2千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るのである。

 

一切衆生を救いたいと願う日蓮の慈悲心が広大であれば、必ず南無妙法蓮華経は万年どころか未来永劫までも弘まるであろう。 私(日蓮大聖人様)の身命をかけた布教は日本国の人びとを開眼させる功徳があり、一時たりとも苦しみがやまない地獄への道をふさいだのである。

 

以上


5日

「法華経と申す御経は身心の諸病の良薬(ろうやく)なり。 されば経に云はく「此の経は即(すなわ)ち為(こ)れ閻浮堤(えんぶだい)の人の病の良薬なり。 若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば病即消滅して不老不死ならん」等云々」

(太田左衛門尉御返事 一二二二)

 

「法華経という御経は身心(しんじん)の諸(もろもろ)の病の良薬(ろうやく)である。だから法華経薬王品第二十三に「この経はすなわち閻浮提(えんぶだい)(全世界)の人の病の良薬である。もし人が病であっても、この経を聞くことができれば病はすぐに治って不老不死になろう」等とある。

 

*病を起こす因縁

 大聖人様は、病が起こる因縁について、他のお手紙に『摩訶止観』の言葉を引用し、  「一には四大順ならざる故に病やむ、二には飲食(おんじき)節せざる故に病む、三には坐禅調(ととの)はざる故に病む、四には鬼便りを得る、五には魔の所為、六には業の起こるが故に病む」(同 911頁) と示されています。これを解説すると、

    人間の体は、森羅(しんら)万象(ばんしょう)あらゆる物質と同じく地・水・火・風の四大(しだい)によって構成されている。その四大が不順を起こす。

②食べ過ぎや飲み過ぎなどの不規則な生活による。

③睡眠不足や精神的な不安による。

④「鬼」は現代的に訳せば細菌なども含まれると考えられる。

⑤障魔の用(はたら)きによって精神的に病み、そのストレスが肉体の不調を起こす。

⑥過去世の宿業により、先天的に肉体面・精神面に不自由を感じたり、突如として難病にかかる。の六つに分類できるということです。

 前半の四つの因縁による病気は、日頃からの健康管理や医師による治療で比較的簡単に治すことができます。

 これに対して障魔の用きもさることながら、宿業による業病は容易に克服することはできません。なぜならこれは、私たちの生命に深く根ざす   宿命がもたらすものだからです。

 

(大白法・平成15年3月1日刊  第616号より一部分転載)

 

 


6日

「人死して後色の黒きは地獄に堕つとは一代聖教に定むる所なり」

(神国王御書 一三〇三)

 

「人が死んで後に色が黒くなるものは地獄に堕ちるとは一代聖教に定めるところである」

「いろいろな経典や論釈に説かれている臨終の相と、実際の人々の臨終の相とを照らし合わせてみると、まったく例外はない。臨終の相をもって、この人は地獄に堕ちてしまった、あるいは人界や天界に転じた、等々ということを明らかに知ることができる。」

 

 また、「臨終に地獄へ落ちた者は、遺体がどす黒く変色し、ずっしりと重く感じる。逆に、善(ぜん)業(ごう)を積んで成仏した人の遺体は、綺(き)麗(れい)な色白となって、その身は軽かるく、死後硬(こう)直(ちょく)もなく兜(と)羅(ろ)綿(めん)のように柔やわらかいのである」とのお示しです。

 

今日の医学では、死を迎えた人体は、遺体の腐敗によって腐敗臭が出、血液が凝(ぎょう)固(こ)するために皮膚が黒く変色し、死後硬直によって関節が死亡した時の位置で固まってしまう、とされています。それは要するに、世の中の人が皆、そういう姿になることからも、それが定説となっているのでしょう。

 

ですから、その逆に、生前よりも綺麗な色白の肌はだとなり、腐敗臭もなく、死後硬直も起きない等ということは、医学的には考えられないこと、ありえないことなのです。

 

 しかし大聖人様は、正しく信仰して成仏を遂た人は必ずそのような善相になる、と仰せであり、事実、そのとおりであることは、日蓮正宗で執り行おこなわれた葬儀を通じ、多くの人が確認しているところです。

 

 要するに、謗法の人と、正法を信仰した人とでは、臨終の相に大きな差別がある、それが厳然たる事実なのです。

もし、生命が死後にまで続いておらず、死んで無になるのであれば、また、死後の生命に何の差別もなく、皆、等しく同じ境界を感じているのであれば、臨終の相の上に、こうした差別が現れることの説明がつきません。

(大白法・平成18年6月1日刊 第694号より一部分転載)

 

 


7日

「諸経は悪人・愚者・鈍者・女人・根欠(こんけつ)等の者を救う秘術をば未だ説き顕はさずとおぼしめせ。

法華経の一切経に勝れ候故は但此の事に侍り」

(唱法華題目抄 二二六)

 

法華経にのみ人々を本当に救う教えが説かれ、法華経を蔑ろにしている仏教各派は当然不幸の根源であります。

仏法にあまり詳しくない人が仏教を「我田引水(がでんいんすい)」で考えますと、仏教徒同志で何故批判しあうのか疑問が生まれるでしょうが、仏法を真剣に考え学び、本当の仏教を信じていくと批判せずにはいられない問題にぶつかります。批判して折伏をしなければ私達の成仏が危ういのであります。

 

日蓮正宗が他宗他門を批判する理由は、間違った教えに依って不幸になり地獄に堕ちるからであります。そのため、折伏という修行が日蓮正宗にあります。 

 これは単なる批判ではなく、仏様の教えに随った「慈悲行」です。他宗他門で主張する教え・教義は一見最もらしい理屈を言っておりますが、長い目で、特に仏様の立場から御覧になられた場合、非常に矛盾した結果があります。

 また、釈尊が説かれている教えと違背しているのが現実です。違背していることを気づかせ、本来の仏法に目覚めて頂くために「慈悲」を持って批判するのであります。間違っていることを見過ごす方が無慈悲です。

 

(法華講正林寺支部 正林編集部より一部分引用しました)


8日

「此の五字の大曼荼羅(まんだら)を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。乃至(ないし)後生の大火炎を脱(のが)るべしと仏記しをかせ給ひぬ」

(新尼御前御返事 七六四)

大聖人様の己身所具(こしんしょぐ)の事(じ)の一念三千(いちねんさんぜん)・直達正観(じきたつしょうかん)の南無妙法蓮華経を御本尊として顕された、いわゆる自体顕照(じたいけんしょう)の大漫荼羅(だいまんだら)なのです。端的に言えば、御本仏大聖人様の御尊体と御魂魄(ごこんぱく)を、そのまま御本尊として顕されたということなのです。ゆえに日蓮正宗では、大聖人様が御図顕あそばされた御本尊を人即法(にんそくほう)・法即人(ほうそくにん)・人法一箇(にんぽういっか)の本尊と称するのです。

 いずれにせよ、宗祖所顕の御本尊が、前代には全く顕されていない未曽有の御本尊であることを深く拝し、御本尊を受持していくことが大切なのです。

 「此の五字の大曼(まん)荼羅(だら)を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶たすけ万民は難をのがれん」 との仰せは、大聖人様の御出現によって顕された三大秘法の御本尊が、末法の衆生を救う唯一の法であることを教示されていると拝せられます。

 したがって、正法を信受できた私たちは、広宣流布に向かって邁進する以外に世界の平和と幸福はあり得ないことを固く信じ、一層精進しようではありませんか。

 

(大白法・平成15年12月1日刊 第634号より一部分転載)


9日

「此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽くして供養せる功徳に百千万億勝(すぐ)れたりと仏は説かせ給ひて候」

(新池御書 一四五六~一四五七)

 

大聖人様は、目先のことに左右されることなく、本来の仏道修行の目的に向かって精進するならば、  「此の経の行者を一度供養する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽くして供養せる功徳に百千万億勝すぐれたりと仏は説かせ給ひて候」 と、その御供養には無量の功徳が存することを御教示あそばされています。

 

 私たちは、正しい御供養を奉るためにも、  「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」 と仰せのように、常日頃から求道の精神をもって寺院に参詣し、指導教師より仏法の道理を聴聞して、正しく信心修行に励むことが大切です。

(大白法・平成11年9月1日刊 第532号より一部分転載)

 

 

 


10日

「黄梅桃李(おうばいとうり)の己が位(くらい)己が体を改めずして無作の三身と開覚す。 是即ち量の義なり。 今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は無作三身の本主なり云々(うんぬん)」

(就註法華経口伝 下 一七九七)

 

「桜は桜、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李と、おのおのの当体を改めず、そのままの姿で無作三身(本来ありのままの仏)と開きあらわしていくのである。これが一切を摂(おさ)めることであり、(無量義の)量の義である。

 

大聖人様の仏法では、人間がありのままの姿で、最高に輝いていく生き方を説いています。その代表的な考え方の一つが、この御文から学ぶ「桜梅桃李(おうばいとうり)」の法理です。

 

 これは、桜・梅・桃・李(すもも)のそれぞれが、違う特質をもって美しく開花することを表現した言葉です。人間に置き換えれば、一人一人が、他人にはない特長や個性を発揮し、それらを生かしていくということです。

いま、日蓮大聖人様およびその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、すべて無作三身(本来ありのままの仏)の本主なのです。

 

 


11日

「今年も十一月十一日、安房国(あわのくに)東条の松原と申す大路(おおじ)にして、申酉(さるとり)の時、数百人の念仏等(ら)にまち(待)かけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要にあ(合)ふものわづ(僅)かに三四人なり。 いる(射)矢はふる(降)雨のごとし、う(討)つたち(太刀)はいなづま(雷)のごとし。 弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のて(手)にて候。

自身もき(斬)られ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかが候ひけん、う(討)ちも(漏)らされていま(今)までい(生)きてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさりて候へ。

(南条丘衛七郎殿御書 三二六)

 

文永元年の十一月十一日、安房の国東条の地で、地頭・東条景信を中心とする武装した数百人の念仏者によって大聖人様一行は襲撃されました。これが有名な「小松原の法難」です。 そのときの有り様を本抄にしたためられています。

仰せの通り、襲撃のすさまじさが拝されます。

 

 襲撃した景信は念仏の信者でありますが、大聖人様は建長五年の初転法論(しょてんぽうりん)で、堂々たる態度をもって、理路整然と念仏を破折されました。景信は、自身の信仰する念仏を破折される大聖人様に対して怨念を懐いたのでした。

 

 そんな折り、大聖人様の久しぶりの帰郷を知った景信が、この機会を見逃すはずはありません。まさに『法華経』の文の「悪鬼入其身」そのものの姿を現出したのです。

 

末法御出現の御本仏に傷を負わせた景信は、その後、日ならずして狂死しました。

 これにつき、大聖人様は『報恩抄』に、  「彼等は法華経の十羅刹(じゅうらせつ)のせ(責)めをかほ(蒙)りてはやく失せぬ」(御書 1030頁) と、法華の現罰に依るものであると仰せです。

 

私たちは、この大聖人様の大慈大悲に万分の一でもお応えすべく、いかなる難にも屈することなく、唱題を根本に、正々堂々と正法正義を実践してまいりましょう。

(大白法・平成8年12月1日刊 第468号より一部分転載)

 

 


12日

「罰(ばち)は総罰・別罰・顕罰・冥(みよう)罰 四つ候。 日本国の大疫病(やくびょう)と大けかち(飢渇)とどうしうち(同士討)と他国よりせめらるるは総罰なり。

やくびゃう(疫病)は冥罰なり。 大田等は現罰なり、別罰なり」

(聖人御難事 一三九七)

 

「罰には、総罰・別罰・顕罰・冥罰の四種がある。日本国に大疫病が起り、大飢饉におそわれ、北条一門に同士討ちが起こり、また他国から責められているのは、総罰である。疫病は冥罰である。大田や大進房の落馬などは現罰であり、別罰である」

 

総罰・別罰・顕罰・冥罰の区別についていえば、社会全体が仏法に背いていることによって社会全体が不幸を招くのが総罰である。

それは、社会というものが一つの統一的な原理によって成っており、その原理が間違っていれば、社会の中の成員は、個人意志にかかわりなく、それによる結果をこうむるのである。これに対して、個人的な仏法への違背行為から、その個人が受けるのが〝別罰〟である。したがって、総罰と別罰の二つは、個と全体の関係にあるといえる。

 

 それに対して、顕罰ないし現罰と、冥罰という立て分けは、少しむずかしくなる。冥罰とははっきり形にあらわれないということであるが、たとえば、今は、例として疫病をあげられているように、それ自体は、はっきりした形をもっている。では、どこが〝冥〟かというと、仏法に背いたという原因と、疫病という結果との間のつながりが、凡人の眼には不明瞭であるということである。

 

 つまり、冥罰とは、生命の法である仏法に背くことにより、その生命活動のリズムに狂いや衰弱を生じ、それが病気等の結果としてあらわれてくる故に〝冥罰〟という。

 

仏法に背いたことが直接的にもたらすのは、生命そのものの異変で、病気は、その生命の異変の結果として出てくる。したがって、必ずしも病気という結果になるとは限らないのであって、生命力の衰弱したところに、たまたま病原菌が侵入したから、病気になったともいえる。もし別の動機が働いていれば、別の結果を生じたであろう。

 

 これが〝冥罰〟であるが、このことからも分かるように、冥罰こそ法華経の罰の本質的なケースであって、むしろ顕罰の方が例外的なのである。逆に、利益・功徳についていうと〝冥益〟こそ法華経の功徳の本質的なもので、顕益は例外的なケースになるのである。そして、この場合は、仏法の信仰によって生命のリズムがととのい、力が豊かになるのであるが、その生命の力をどのように活用するかは、その人の生活上、社会的分野での努力にかかっていることを知らなければならない。

 

 


13日

「下種とはたねをくだすなり。 種子とは成仏の種なり」

(御講聞書 一八五二)

 

 

我々の信心修行に約した場合、この下種は誰がするのかと言えば、それは我々なんです。また、法体に約して言えば、下種とは本因下種の題目であります。ですから「下種とはたねをくだすなり」とあるように、自らも強盛な信心に励むと同時に、また他に対しても下種結縁せしめる、折伏することが肝要であるということです。つまり、本未有善の荒凡夫の心田に妙法蓮華経を植え付けていくということなのです。

折伏をすると相手は耳を塞ぐ。中には食ってかかってきたりと、いろいろなことがあります。けれども、我々が折伏をしていけば、その声は必ず相手の耳から入っていくのです。反対しようがしまいが、その人の命の中に下種されていくわけです。

すると不思議なことに、それが妙法の功徳によって逆縁成仏になるのです。皆さん方が下した種が、いつか必ず花咲いて、その人は信心するようになるんです。それが逆縁成仏ということなんですね。ですから、一人でも多くの人に下種をしていくことが大事であり、それが折伏の第一歩なのです。したがって、どんな人に対しても折伏をしていくということを心がけていただきたいと、このように思います。

(法華講夏期講習会 第九期 平成18年7月23日 より一部分抜粋)

 

 


14日

「所詮末法に入りて仏を見るとは寿量品の釈尊、法を聞くとは南無妙法蓮華経なり」

(御講聞書 一八四九)

 

一 見仏聞法 信受 教 誨(きょうげ)の事

仰せに云はく、此の経文は一念随喜の人は五十の功徳を備ふべし。然る間見仏聞法の

功徳を具足せり。此の五十展転の五十人の功徳を随喜功徳品に説かれたり。仍って世々

生々(てんでん)の間、見仏聞法の功徳を備へたり。所詮末法に入りて仏を見るとは寿量品の釈尊、法を聞くとは南無妙法蓮華経なり。教誨とは日蓮等の 類(たぐい) 教化する所の諸宗無得道の教誡なり。信受するは法華経の行者なり。所詮寿量開顕の 眼(まなこ) 顕はれては、此の見仏は無作の三身なり。聞法は万法己々の音 声(おんじょう) なり。信受教誨は本有随縁真如(ほん ぬ ずいえんしんにょ)の振る舞ひなり。

 

是即ち色心の二法なり。見聞とは色法なり、信受は信心 領 納(りょうのう)なれば心法なり。所謂色心の二法に備はりたる南無妙法蓮華経是なり云云。


15日

「真実一切衆生色心の留難を止(とど)むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」

(四条金吾殿御返事 一一九四)

 

大聖人様は、『御義口伝(おんぎくでん)』のなかで、「今日蓮が唱ふる処(ところ)の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり。豈(あに)今者已(こんじやい)満足に非ずや。已とは建長五年三月廿八日に始めて唱ヘ出()だす処の題目を指して已と意得(こころう)べきなり。妙法の大良薬を以て一切衆生の無明(むみよう)の大病を治せん事疑ひ無きなり」と仰せであります。

 

 すなわち、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人が唱えあそばされた本因下種(ほんにんげしゆ)の妙法は、末法万年の衆生までも成仏せしめる大良薬にして、この妙法の大良薬をもって一切衆生の根本の迷いである無明の大病を治することができることは疑いないと仰せられているのであります。

 

 されば、『四条金吾殿御返事』には、「真実一切衆生色心の留難(るなん)を止(とど)むる秘術は唯(ただ)南無妙法蓮華経なり」と仰せられています。

 

 私どもはこれらの御文を拝し、本因下種の広大無辺なる功徳を一人でも多くの人々に知らしめていくことが今、最も肝要であると知るべきであると思います。


16日

「うつりやすきは人の心なり。善悪(ぜんなく)にそめられ候。 真言・禅・念仏宗等の邪悪の者にそ(染)められぬれば必ず地獄にを(堕)つ。 法華経にそ(染)められ奉れば必ず仏になる」

(西山殿御返事 一〇七二)

 

「雪はきわめて白いものであるから染めようにも染めることができない。漆はきわめて黒いものであるから白くなることはない。

 雪や漆とちがって移り易いものは人の心である。善にも、また悪にも染められるのである。

 真言宗・禅宗・念仏宗等の邪悪の者に染められてしまうならば必ず地獄に堕ち、反対に法華経に染められるならば必ず仏になることができる。法華経の方便品第二には「諸法実相」と説かれ、また譬喩品第三には「若し人信ぜずして、この経を毀謗(きぼう)せば(中略)其の人命終(みょうじゅう)して、阿鼻獄に入らん」と説かれている。

 心して法華経の御信心を白い雪、黒い漆のなにものにも染められないように堅固に持たれるがよい」と大聖人様は仰せです。

 

 


17日

「今妙法蓮華経と申す人はその心をしらざれども、法華経の心をう(得)るのみならず、一代の大綱(たいこう)を覚(さと)り給へり」

(曾谷入道殿御返事 一一八七)

 

 本抄は、建冶三(一二七七)年十一月二十八日、日蓮大聖人様五十六歳の御時、下総(しもふさ 千葉県)在住の檀越(だんのつ)曽谷二郎兵衛尉教信に与えられた御消息です。

 爾前の題目は皆、一代八教中の網目であり、十界互具・一念三千の妙覚の功徳が具わる法華経の題目は八教を超越した大綱(たいこう)である旨を教えられ、妙法蓮華経の題目に具そなわる功徳は絶大である。よって、その題目を唱える者が、自身の教学力の不足を理由に、爾前の識者や学者に威嚇(いかく)され退転心を起こすことの愚おろかさを示され、曽谷入道に不退転の決意を持って堂々と謗法破折に邁進するよう励まされています。

 また、題目の五字・七字は、法華経の心であり所詮の法体を示したものであり、この心は、仏滅後のいかなる聖人や人師、論師も宣説するところではなく、ただ末法の御本仏日蓮大聖人様が所持される法体であることを説かれます。そして、もしも大聖人様を卑(いや)しんで妙法の題目を唱えないとするならば、あたかも病人が医師を疑って薬を服用しない愚行と断ぜねばならないと強く示されています。

(大白法・平成20年11月1日刊 第752号より一部分転載)

 

 


18日

「代におさまれるには賢人見えず。 代の乱れたるにこそ聖人・愚人は顕はれ候へ」

(兵衛志殿御書 一二七〇)

 

当抄は池上兄弟の弟、兵衛志(ひょうえさかん)殿に与えられた御消息です。

末世においては、聖人賢人は現れず、奸佞(かんねい)・諂曲(てんごく)の者のみが国に充満し、それに災難が重なって人の心はますます険悪となり、父母、夫妻、兄弟などの身内同士の争いが絶えない有り様を述べられます。

大聖人様は 「真実の経の御理(ことはり)を、代末になりて仏法あながちにみだれば大聖人世に出づべしと見へて候」 と述べられ、木の王たる松は、諸木の葉が枯れ落ちた後にも青々と茂り続け、仙草たる菊は、諸草の枯れたのちに花を咲かせる等の例を挙げて、白法穏没(びゃくほうおんもつ)の末法の世を救う大聖人とは、御自身であられることを示されます。

今を去る七百年前、法然・良観等の謗法が三災七難を起こしたように、今日の日本と世界も、同じく三災七難の真っ直中にあると言っても過言ではありません。その根本原因は、創価学会の謗法にあることは明らかです。

 池田大作が公然と御法主上人猊下を誹謗したのは、平成二年十一月十六日の本部幹部会でした。その翌日に、九州普賢岳の噴火が始まったことは、偶然の符節でしょうか。否、仏法に偶然はありません。以来、今日にまで続く天変地災と多くの事故は、依正不二の理からすれば、三宝破壊に対する諸天の怒りでなくて何でありましょう。

 いまこの時こそ、池上兄弟の信心を手本とし、不抜の確信を以て、謗法破折に邁進いたしましょう。

 

(大白法・平成5年9月1日刊 第393号より一部分転載)


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