10月


1日


「夫(それ)末萌(みぼう)を知る者は六正(りくせい)の聖臣(せいしん)なり。 法華を弘むる者は諸仏の使者なり」

(一昨日御書 四七六)

本抄は、建治元年(一二七五)五月八日、 大聖人様が五十四歳の時、身延において認められた御書です。

 

「未萠を知る者は、六正の聖臣である。法華経を弘める者は、諸仏の使者である」

 

語訳

未萠(みぼう)

 未来の出来事。萠は萌の俗字で、きざす・おこる・あらわれるの意。未萠は未だ起こらないこと。

 

六正(ろくせい)の聖臣

 六正は「りくせい」とも読む。儒家で正しい臣下の標準を六種に分類した六正(聖臣・良臣・忠臣・智臣・貞臣・直臣)のうちの最高の臣下・聖臣のこと。いまだ現れない事柄や存亡の機・得失を予知して、常に主君を安泰にしておく臣下をいう。

 

 


2日

「師子王は前三後一と申して、蟻(あり)の子を取らんとするにも、又猛(たけき)ものを取らんとする時も、いきをい(勢い)をひを出す事はただを(同)じき事なり。

日蓮守護たる処の御本尊をしたゝめ参らせ候事も師子王にをとるべからず。

(経王殿御返事 六八五)

本抄は、文永十年(一二七三)八月十五 日、大聖人様が五十二歳の御時、佐渡の一谷いちのさわにおいて認したためられました。

 

師子王が獲物を捕らえるときには相手の力にかかわらず全力を注ぐことを譬えとしてあげ、御本尊を認める場合も師子王に劣らず全力を込めて認めているのである。よって、この御本尊を能く能く信じなさいと御指南されています。


3日

釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時の日蓮が名字即の身に移せり」

(法華本門宗血脈相承事(本因妙抄) 一六八四)

 

久遠元初の自受用身も、末法今時の日蓮大聖人も、その「行」と「位」が全く同じであり、名字即の凡夫の当体のままの仏の振る舞いである故に、日蓮大聖人は全く久遠元初の自受用身即無作三身如来であられるとの御言葉であります。これ、本仏の生命に約しての「久遠即末法」「久末一同」の原理です。

 

 


4日

「かつ(飢)へて食をねがい、渇(かつ)して水をしたうがごとく、恋ひて人を見たきがごとく、病にくすりをたのむがごとく、みめ(形)かたち(容)よき人、べに(紅)しろいものをつくるがごとく、法華経には信心をいたさせ給へ。さもなくしては後悔あるべし云々」

(上野殿御返事 一三六一)

 

 

「飢えた時に食べ物を求め、のどが渇いた時に水を欲しがるように、恋しい人を見たいように、病気になって薬を頼りにするように、美しい人が紅や白粉(おしろい)をつけるのと同じように、法華経に信心をしていきなさい。そうでなければ後悔するであろう。」


5日

「末法に攝受・折伏あるべし。所謂(いわゆる)、悪国・破法の両国あるべきゆえなり。日本国の当世は悪国か、破法の国かとしるすべし」

(開目抄 下 五七六)

 

末法にもまた摂受と折伏があるべきである。いわゆる無智悪人の悪国と、邪智謗法の破法の国があるべきゆえに、悪国には摂受を行じ、破法の国には折伏を行ずるのである。されば日本国の当世は悪国か破法の国か。邪智謗法の国であることはとうぜんであり、折伏でなければ弘法も不可能であり、絶対に功徳を受けることがありえない。

 

 


6日

「日蓮は御房は師匠にてはおわせども余(あま)りにもこはし(強)。我等はやわらか(和)に法華経を弘むべしと云はんは、蛍火(ほたるび)が日月(にちがつ)をわら(笑)い、蟻塚(ありつか)が華山(かざん)を下(くだ)し、井江(せいこう)が河海をあなずり、鳥鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべし、わらふなるべし」

(佐渡御書 五八三)

 

大聖人様の弟子の中に、 「日蓮御房は師匠にてはおはせども余あまりにこは(強)し。我等はやは(和)らかに法華経を弘むべし」 という、愚癡の弟子がいたことです。このような弟子に対し、大聖人様は法華経の行者が難に遭う所以(ゆえん)をお示しになったのです。これについて大聖人様は、  「蛍(ほたる)火が日月をわら(笑)ひ、蟻塚(ありづか)が華山(かざん)を下(く)だし、井江(せいこう)が河海をあなづり、烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべし」 と仰せになり、法華経の正義を知らない僻見(びゃっけん)の弟子たちに対して、勧誡されています。 これは師弟相対の信心を忘れた姿です。日興上人の時代にも本従の師を違える僻見の者たちがいたことを『五人所破抄』にお示しになっています。

 これはまさしく、現今の創価学会の姿です。創価学会は、いたずらに「人間主義」などと言って血脈付法の御法主上人猊下の御指南に師敵対し、劣れるものを勝れるという僻見に陥おちいっています。私たちはあくまでも、本門戒壇の大御本尊を信仰の根本として、御法主上人猊下の御指南に信伏随従し、決して我見に陥ることのないよう、自身の信心を戒めてまいりましょう。

(大白法・平成11年6月1日刊 第526号より転載)

 

 


7日

 

「仏法は摂受(しょうじゅ)・折伏時によるべし。 譬(たと)へば世間の文武二道の如し」                                              (佐渡御書 五七八)

 

「仏法は摂受しょうじゅ・折伏時によるべし」 と仰せられ、末法の修行のあり方を示されています。末法の衆生は、本未有善(ほんみうぜん)の衆生ですから、最初下種の機であり、時代も五濁乱漫(ごじょくらんまん)の世です。このような時には衆生の心田(しんでん)に妙法を下種し、教えの乱れには謗法を破折する折伏の修行が重要なのです。

 

(大白法・平成11年6月1日刊 第526号より転載)


8日

「心は日蓮に同意なれども身は別(べち)なれば、与同罪(よどうざい)のがれがたきの御事に候に、主君に此の法門を耳にふれさせ進(まい)らせけるこそありがたく候へ。 今は御用ひなくもあれ、殿の御失(とが)は脱(のが)れ給ひぬ」

(主君耳入此法門免与同罪事 七四四)

 

本抄は、文永十一(一二七四)年九月二十六日、大聖人様が五十三歳の御時に身延において認(したため)られ、鎌倉の四条金吾殿に与えられた御書です。

 大聖人様は、この年の三月に赦免となり、足掛け四年にわたって配流されていた佐渡の国より鎌倉に帰って来られました。

 このことを大変喜んだ四条金吾殿は、法華経と大聖人様の偉大さを改めて確信し、以前から考えていた主君である江間入道光時への折伏を敢行しました。

 この報告に対して、大聖人様が四条金吾殿の勇気と功徳を讃え、これで与同罪(よどうざい)を免れることができたと喜ばれ、今後は特に身を引き締めるべく細かな注意と激励をあそばされたのが本抄です。

 

いかに心は日蓮と同意であったとしても、身と心は別であり、身は主君に従わなければならないから与同罪は免れ難いのであると述べられ、しかし、そうした中にあって四条金吾殿は勇気を奮い起こして日蓮の弟子檀那として主君を折伏し、日蓮の教えを説き聞かせたということは、まことに尊いことであり、与同罪は免れたことであろうと述べられます。

 

今、私たち自身が四条金吾殿等を信心の手本として自らの境界を開かなければならない時です。その第一は、大聖人様の弟子・檀那としての自覚をしっかり持ち、不自惜身命の精神をもって正法を護持し、一切衆生を救済するために大聖人様の手足となって闘うことです。そうすることによって、私たちの個々の悩みや苦しみは自ずと解決し、成仏の境界が開けてくるのです。

 何者をも恐れずに、勇気と強盛なる信心をもって正法・正義に我が身を任せていくところに真の仏果があることを確信し、令和の四条金吾となって、御法主日如上人猊下の破邪顕正・広宣流布の陣列に加わり、二陣、三陣と続いて一人ひとりが折伏を成し遂げる信心をやりきってまいりましょう。

(大白法・平成11年3月1日刊第520号より一部分転載)

 

 


9日

「如何(いか)にして今度法華経に信心をとるべき。信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企(くわだ)つるごとし。但し近き現証を引いて遠き信をとるべし」                     (法蓮抄 八一四)

 

本抄は、下総(しもうさ)の国、国分村曽谷(現在の千葉県市川市)の郷主であった曽谷教信(きょうしん)に与えられた御消息であり、建冶元(一二七五)年四月、大聖人様が五十四歳の御時、身延において認められました。

 

「どのようにして、今度、法華経の信心をとるべきであろうか。

 信がなくてこの経を行ずることは、手がなくて宝山に入り、足がなくて千里の道を歩こうとするようなものである。ただし近い現証によって、遠い信を取るべきである」

 

(大白法・平成19年9月1日刊 第724号より一部分転載)


10日

「此の経の信心と申すは、少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず、法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ」

(新池御書 一四六〇)

 

 本抄は、弘安三(一二八〇)年二月、大聖人様が五十九歳の御時に身延においてお認したためになり、遠江国磐田郡新池(にいけ)(現在の静岡県袋井市)に居住されていた新池左衛門尉殿に与えられた御書です。

 

「すなわち、信心とは、少しも我見を交えず、人の語に迷わされず、また法華経の心に背かず、ひたすら南無妙法蓮華経と唱えていくことで、そこに即身成仏の要諦がある」と示されます。このことを、さらに有解無信と有信無解の二義から、法門が理解できても信心のない者は決して成仏できず、反対に法門が理解できなくても、純粋に妙法を信ずる心が強ければ、必ず成仏が叶うと説かれます。そして、末法の衆生は、少々法門を学ぶと慢心を起こし、悪道に堕ちると戒められるとともに、仏法僧の三宝を正しく尊崇し供養していくべきことを勧められています。

 

(大白法・平成11年9月1日刊第532号より一部分転載)


11日

「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親(さしん)無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥(たし)かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべき成り」

(最蓮房御返事 六四二)

 

本書は、文永十(一二七三)年正月二十八日、大聖人様が御年五十二歳の時、佐渡一(いち)の谷(さわ)において最蓮房日浄師に与えられたものであり、病身であった最蓮房が「息災延命(災いを息(や)め寿命を延ばすこと)」の御祈念を願い出たことに対して、御祈念のための経文を認(したた)められ、それを送るに当たって書き添えられた御消息であることから、『祈(き)祷(とう)経送状』とも言われています。

 

「法華経の行者は信心に退転なく、身の振る舞いに偽(いつわ)りなく、一切を法華経に任せて金言の通り修行することにより、後生は言うまでもなく今生においても息災延命であり、勝れた大果報を受け、広宣流布の大願をも成就することができる」と、法華経の信仰を貫いていくことの大事と、功徳を確信することを促されています。

(大白法・平成20年3月1日刊第736号より一部分転載)

 

 


12日

「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩(やから)は非法の衆たるべきなり」

(身延山付属書 一六七五)

 

 本門戒壇の大御本尊と日蓮大聖人の一期における仏法の一切を相承された法体・法門の相承書をいいます。

 また、『身延山付嘱書』(池上相承書)は、同年十月十三日の御入滅の当日、池上宗仲の邸において認められたもので、日興上人に身延山の別当・貫首(かんず)の地位を付嘱され、この唯授一人の日興上人の御指南に従わない者は正法に背(そむ)く者であると、弟子檀那に対する戒めをも記された相承書です。

二箇相承は、唯授一人の相伝のもと、文底下種の仏法が正しく末代に伝わり、一切衆生を救済されるために残された、御本仏日蓮大聖人の大慈大悲の御金言書なのです。

 

(大白法・平成7年2月16日刊 第426号より一部分転載)


13日

「各々思ひ切り給へ。此の身を法華経にかうるは石に金をかへ、糞を米にか(替)うるなり」

(種々御振舞御書 一〇五六)

 

「各々覚悟を決めきって修行をやりとおしなさい。命を捨てても此の身を法華経と交換するのは、石を黄金(こがね)と取り換え、糞を米と交換するようなものである。

 

妙法広布に励む者は、いかなる難敵・強敵にも恐れることなく、勇躍として折伏に励み、けっして臆してはならぬと仰せられているのであります。

まことに厳しいお言葉ではありますが、ここまで徹底していく信心こそ、一生成仏にとっては大事なのであります。                     (大白法・令和2年1月16日号より抜粋)

 

 


14日

「問うて云はく、五逆罪より外(ほか)の罪によりて無間(むけん)地獄に堕ちんことあるべしや。答えて云はく、誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の重罪なり」

(顕謗法抄 二七九)

 

本抄は、弘長二(一二六二)年、大聖人様が四十一歳の御時に、伊豆の伊東において認(したため)られた御書です。題名は、大聖人様が自ら題されたものです。

無間地獄の因果の軽重について明かされ、従来、無間地獄の業因は五逆罪とされますが、五逆罪よりも謗法のほうが重罪であることを示されます。

 

誹謗正法こそ堕地獄の業因

 大聖人様は、本抄において、八大地獄の最下にある大阿鼻地獄、すなわち無間地獄に堕する業因は、正法を誹謗する謗法にあることを指摘されています。

 故に末法の今日において、文底下種の妙法蓮華経の正法を誹謗することはもちろん、この正法を信仰しなかったり、他の宗教を信仰することが、すべて堕地獄の業因となるのです。

(大白法・平成26年5月1日刊 第884号)より転載)

 

 


15日

「日蓮一期(いちご)の弘法(ぐほう)、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通(ぐつう)の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり」

(日蓮一期弘法付嘱書 一六七五)

 

『日蓮一期弘法付嘱書』(身延相承書)は、弘安五年九月に身延山で認したためられたもので、本門戒壇の大御本尊と日蓮大聖人の一期における仏法の一切を相承された法体・法門の相承書をいいます。

日興上人に身延山の別当・貫首かんずの地位を付嘱され、この唯授一人の日興上人の御指南に従わない者は正法に背そむく者であると、弟子檀那に対する戒めをも記された相承書です。

このように、唯授一人の相伝のもと、文底下種の仏法が正しく末代に伝わり、一切衆生を救済されるために残された、御本仏日蓮大聖人の大慈大悲の御金言書なのです。

 

 


16日

「鹿をほ(吠)うる犬は頭(こうべ)わ(破)れず、師子を吠うる犬は腸(はらわた)くさる(腐)。日月(にちがつ)をのむ修羅は頭七分にわれ、仏を打ちし堤婆は大地われて入りにき。所対によりて罪の軽重はありけるなり」

(兄弟抄 九七九)

「鹿を吠える犬は頭が割れるようなことはない。師子を吠える犬は腸(はらわた)が腐る。日月を呑む修羅は頭が七分にわれ、仏を打った提婆達多は大地がわれて無間地獄に入った。このように罪を犯した所対によって罪の軽重は異なるのである」

 

「師子を吠る犬は腸(はらわた)くさる」

御本仏日蓮大聖人を百獸の王たる師子にたとえ、大聖人に怨(あだ)をなす諸宗の僧侶、正法を誹謗する大衆、権力者等を、犬にたとえられたのである。

この文のとおり、大聖人に怨をなした人々は、正法誹謗の罪により、後生は無間地獄に堕ち、現身には重病になる等の現罰があらわれたのである。

 

「一切を開く鍵は唱題行にある」(大日蓮 六三五号) との御指南を心肝に染めて御題目を心ゆくまで唱え、異体同心の団結で御法主上人猊下の驥尾(きび)に附し、大折伏の陣列より勇往(ゆうおう)邁進して、魔に打ち勝つ信心をしてまいりましょう。

(大白法・平成11年5月1日刊 第524号より一部分転載)

 

 


17日

編集中


18日

「謗法と申す罪をば、我もしらず人も失とも思わず。但仏法をならへば貴しとのみ思ひて候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無限(むけん)地獄に墜つる事あり」

(妙法比丘尼御返事 一二五八~一二五九)

 

本抄は、弘安元(一二七八)年九月六日、大聖人様が五十七歳の御時に、身延において認したためられた御消息で、妙法比丘尼が嫂(あによめ)から託された太布(たふ)帷(かたびら)を大聖人様に御供養するとともに、兄・尾張次郎兵衛の死を御報告申し上げたことに対する御返事です。御真蹟は現存していません。

 

本宗以外の人は五綱、すなわち教・機・時・国・教法流布の前後、という宗教批判の原理を知りません。したがって、僧も俗も迷い迷わされて地獄に堕ちていきます。

末法における謗法とは下種三宝尊様に背そむくことであることを知らねばなりません。

よって謗法の破折とは、下種仏法の実義をもって文上熟脱の仏法乃至外道に至る一切の邪義を破すことであり、これを折伏というのです。このとき第六天の魔王は支配を破られるのを恐れて留難を引き起こすのです。

 

(大白法・平成11年11月1日刊 第536号より一部分転載)


19日

「相構へて相構へて、力あらん程は謗法をばせめさせ給ふべし」

(阿仏房尼御前御返事 九〇七)

 

 大聖人様は建治元年(一二七五)九月三日、五十四歳の御時に身延において本抄を認したためられ、佐渡の阿仏房夫人、すなわち遠藤為盛ためもりの妻女・千日尼に与えられました。

 

少しでも謗法不信があれば無間大城に堕ちることは疑いない。したがって今こそ大願を立てて謗法不信を取り除き、信心を堅固にしていきなさい、と信心を励まされています。

 謗法について尋ねられた千日尼の信心姿勢を讃えられた上で、重ねて力の限り謗法を責めていくように促(うなが)されて、本抄を結ばれています。

 

 


20日

「況(いわ)んや世末代に入りて法華経をかりそめにも信ぜん者の人に嫉(そね)み妬(ねた)まれん事はおびただしかるべきか」

(四恩抄 二六五)

 

 本抄は、弘長二年(一二六二)一月十六日、大聖人様が四十一歳の時、御配流の地・伊豆の伊東より安房国天津の領主・工藤左近尉吉隆に与えられた御抄です。

 

讒言(ざんげん)し配流に処した悪逆な国主こそが、『法華経』を身読するためには恩の深き人であるとして真実の報恩の道をお示しになり、仏法を習う者として、四恩(一切衆生の恩・父母の恩・国王の恩・三宝の恩)を報ずることが第一の悦びであると説かれています。

 次に、「第二に大なる歎き」 の理由を示されます。ここでは『法華経』を 受持する人を謗(そし)る罪の大なることを説かれている『法師品』の文を引かれ、「法華経の行者」である大聖人様を謗る多くの人々に、千劫阿鼻地獄を決定する一生の業を造らせることを歎かれています。

 

 この歎きは、下種仏法の根本的な救済において、すべての人が、必ず逆縁として仏種を宿すことを根本におかれての歎きであることは言うまでもありません。


21日

「今、日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来たるは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし」

(開目抄 下 五七四)

 

本抄は、文永九(一二七二)年二月、日蓮大聖人様が御年五十一歳の時、佐渡の塚原で述作された御書です。

大聖人様は、文応元(一二六〇)年七月、時の最高権力者・北条時頼に『立正安国論』を提出され、邪法への帰依を止め、正法を立てて国を安んずるよう諌(かん)暁(ぎょう)されました。これにより幕府は、同年八月二十七日、大聖人様の鎌倉松葉ケ谷の草庵を焼き打ちし、翌弘長元年五月十二日には、大聖人様を伊豆の伊東に配流したのです。大聖人様は弘長三年に赦免されて鎌倉に戻られましたが、翌文永元(一二六四)年十一月には、安房小松原において東景信の刀難に値あわれました。

 文永五年正月、蒙古の牒状が到来し、『立正安国論』の予言が的中したことにより、大聖人様は十一通御書を認したためて幕府を諌いさめ、また当時の鎌倉の有力寺院に対して公場対決を迫られました。

 

(大白法・平成28年10月1日刊(第942号)より一部分転載 )


22日

編集中


23日

「末法には法華経の行者必ず出来(しゅつたい)すべし。 但し大難来たりなば強盛の信心弥々(いよいよ)悦びをなすべし」

(椎地四郎殿御書 一五五五)

 

「末法には法華経の行者は必ず出現する。ただし大難に値えば強盛の信心でいよいよ喜んでいくべきである」

 

本抄は弘長元年(一二六一年)四月二十八日、椎地四郎に与えられたお手紙です。

大聖人は、大難がきたならば「弥弥(いよいよ)悦びをなすべし」と言われています。なぜなら、難を受けることによって自己の宿業を転換でき成仏への直道を歩むことができるからです。

 大聖人は天台大師の言葉を引用され、火が薪(たきぎ)によってますます盛んに燃え、大海が河の水をすべて受け入れていく例を挙げられ、大難にあうことによって法華経の行者としての境界をますます広げていき、成仏の道があると信心の極致を教えられています。

 

 


24日

「たゞ一えん(円)にをもい(思)きれ、よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ(思)。ひだ(饑)るしとおも(思)もわば餓鬼道をおし(教)えよ。さむ(寒)しといわば八寒(かん)地獄をを(教)しへよ」

(聖人御難事 一三九八)

 

かの熱原の信心微弱な者たちには、強く激励して、おどしてはならない彼らには、「ただ一途(いちず)に決心させなさい、善い結果になるのが不思議であり、悪い結果になるのが当然と考えなさいと。そして空腹にたえられないようだったら餓鬼道の苦しみを教えなさい。寒さにたえられないというなら八寒地獄の苦しみを教えなさい」

 

本章は、熱原地方の受難者に対しての激励の言葉を通して法難の真の厳しさへ覚悟を促(うなが)された段である。

狭い意味では、現在、熱原の人々があっているこの難がどう展開するかについて、よくなるなどということは不思議と思うべきであり、これからも、ますます厳しくなると覚悟を決めよ、ということである。広い意味では「此の経を持(たも)たん人は難に値()うべしと心得て持つなり」(此経難持御書・一一三六㌻)といわれているように、この仏法を信仰するうえでの基本的な心がまえをいわれたものと拝せる。

 

大聖人様の弟子信徒は、師子王の心を持ち、いかなる脅おどししにも怖(お)それてはならない。少しでも弛(たゆ)む心があれば、魔のつけいるところとなるであろう、と勇猛心(ゆうみょうしん)を振るって法難に立ち向かうことの大切さを教示せられ、さらに大難が現実のものとなっても、妙法の信仰をする者は、その功徳によって必ず成仏することができる、と励まされています。

 最後に、法難の中にある熱原の法華講衆に対しては、心から励まし、法難を乗り越える勇気を与えなさい、と指示され、これまでの法難ですでに退転した名越(なごえ)の尼、少輔房、能登房や、また今回の法難で退転し不慮の死を遂げた三位房(さんみぼう)らと同じような轍(てつ)を踏んではならないと戒められています。

(大白法・平成7年10月1日刊 第441号より一部分転載)

 

 


25日

「或いは火のごとく信ずる人あり。或いは水のごとく信ずる人あり。聴聞する時はもへ(燃)たつばかりおもえども、とおざかりぬればす(捨)つる心あり。水のごとくと申すはいつもたい(退)せず信ずるなり」

(上野殿御返事 一二〇六~一二〇六)

 

大聖人様は建治四(一二七八)年二月二 十五日、御年五十七歳の御時、身延において本書を認したためられ、上野の南条時光殿に与えられました。

「水の信心」と「火の信心」の姿勢があることを指摘し、さらに時光殿の家中の者が病気になった原因を明かして、いっそう信心に励むように促されています。

大聖人様は、法華経を「火のごとく信ずる人」と「水のごとく信ずる人」が存することを指摘した上で、火の信心とは教えを聴聞したときは燃え立つような信仰心を抱くが、遠のくとその心が薄らぎ、やがて仏法を捨ててしまい、一方、水の信心とは水が昼夜を問わず流れ続けるように、常に退せずに信ずることである、と御教示されています。

 

(大白法・平成12年7月1日刊 第552号より一部分転載)


26日

「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」

(教行証御書 一一〇九)

 

折伏の心構えですが、本抄に、 「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」 と仰せのように、世界最高の三大秘法の仏法を信仰できる身の福徳と喜びをもって、確信ある折伏をすることです。折伏は慈悲行です。悪口を言われたり、謂(いわ)れなき中傷を受けることもあると思いますが、唱題を根本に、忍辱(にんにく)の鎧(よろい)を着て、勇気ある実践を してまいりましょう。

(大白法・平成9年12月1日刊 第491号より一部分転載)

 

 


27日

「今既に時来たれり、四菩薩出現したまはんか。乃至各々我が弟子たらん者は深く此の由(よし)を存ぜよ。設ひ身命に及ぶとも退転すること莫(なか)れ」

(法華行者値難事 七二一)

 

竜樹菩薩や天親菩薩が説いた論が権大乗であること、また天台大師や伝教大師が『法華経』を弘通したとはいえ、「本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字」 を弘められなかったことを御教示されます。さらにその理由として、仏より授与されなかったこと、時機が未熟であったことを示されます。そして、時が到来したゆえに四菩薩が出現したことを明らかにされます。

 最後に、弟子・信徒一同に対し、本書を読み聞いていくこと、またこのような濁世(じょくせ)にあっては、互いに言い合わせて常に退転なく、後世の成仏を願っていくよう勧められ、本抄を結ばれています。

 「設ひ身命に及ぶとも退転すること莫(なか)れ」 とあるように、いかなる難が競い起ころうとも、決して退転してはならないということです。大聖人様が佐渡配流となったことから弟子・信徒の中には、同じように身命に及ぶ難が競うことを恐れ、退転する者がいたようです。しかし、大聖人様が大難に立ち向かわれたように、いかなる難にも敢然と立ち向かうことが肝要なのです。

 大聖人様は、大難に値われることに対し、「喜ばしいかな、況滅(きょうめつ)度後(どご)の記文に当たれり」 と、法悦の御境界にあられたことを述べられています。私たちも諸難に怯(ひる)み退いてしまうのではなく、法悦を感じて敢然と立ち向かっていける境界でありたいものです。

 

(大白法・平成9年8月1日刊 第483号より一部分転載)


28日

「涅槃経(ねはんぎょう)に転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)と申す法門あり。先業の重き今生につき(尽)ずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっとき(消)えて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益(やく)をうる(得)事の候」

(転重軽受法門 四八〇)

 

本抄は、竜の口法難から間もない、文永八年(一二七一)十月五日、大聖人様が御歳五十歳の時、相模の依智(えち)でお認(したた)めになられました。

 涅槃経の「転重軽受」の法門によせて、「正法の行者が今生に種々の難を受けることは過去の謗法の重罪を消滅するためである」と説き起こされています。

 そして今、時は末法であり、国は辺土の謗法の国である。妙法弘教には身命に及ぶ種々の大難が競い起こることは、日蓮がかねてから覚悟していたことであり、むしろそれらの難を待っていたのである、と忍難の御覚悟を述べられています。

 これは妙法を正しく行ずる功徳によって、重い罪障を今世に法難として受けて重罪を消すことができ、それのみならず、後生は三悪道・四悪趣に堕ちない大功徳を得ることができるのであるとの御指南です。

 つまり本抄では、妙法を正しく行ずるならば、必ず、過去のすべての罪障を消滅できるだけでなく、人・天・三乗・一乗等の果報を受けるところの絶大な功徳・利益がそなわることを明言されているのです。

 また同時に、その罪障の消滅と絶大な功徳は、さまざまな法難を果敢に受け止め、それを乗り越えるところにある、ということも併せて御教示されています。

 つまり、無始以来の謗法罪障を消滅させていただき、転重軽受させていただくのですから、堅固な信心にもとづき、いかなる障魔にも決して退くことなく、折伏行を実践することこそが、真に大切なのです。

(大白法・平成6年10月1日刊 第418号より一部分転載)

 

 


29日

「我等は穢土(えど)に候へども心は霊山(りょうぜん)に住むべし」

(千日尼御前御返事 一二九〇)

 

この御書は、阿仏房の妻「千日尼」に与えられたお手紙です。

千日尼は順徳天皇に仕えた人々の一人であったとされ、名前の「千日尼」の由来は、大聖人様の御配流直後の三カ月の間、不惜身命の供養をささげたためと伝えられています。

 大聖人様は、龍の口の首の座のあと、幕府によって佐渡の地に流されました。この地での二年五ケ月にわたる御生活は過酷な自然環境にくわえて、念仏者たちから常に命を狙われるという、片時も心身の休まることのない日々であられました。

 千日尼が夫の阿仏房とともに入信されたのは、わけても大聖人様が、塚原三昧堂における最も厳しい状況下にあられた、文永八年の十一月一日から、翌九年の二月までの間であったと推察されます。

 大聖人様のおかれた流人の御立場と、幕府側の険悪な対応を考えますと、大聖人様のために食物などを運んでいることが発覚すれば、国から追放されるか、あるいは命にまで及ぶかもしれないという、大変厳しい状況にあったことが想定されます。

 千日尼はこの危険をおかしてまでも、夫とともに大聖人様をお護り申し上げたのです。監視の目が厳しい昼間をさけ、夜中に食物をはじめ、紙、筆、墨などさまざまな品を御供養申し上げました。

 その信心は、大聖人様が身延に入られてからも、いささかも変わることなく、夫を三度も、大聖人様のもとへ送りだされています。弘安二年には夫の阿仏房を亡くしましたが、子の藤九郎を身延に参詣させて、夫の遺骨を納めさせるとともに、以来、子供や孫などと力を合わせて、佐渡はもとより北陸方面にまで、弘教の輪を広げました。

(大白法・平成5年10月1日刊 第395号より一部分転載)

 

 


30日

「されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ、常寂光の都たるべし」

(最蓮房御返事 五八八)

 

本抄は、文永九年(一二七二年)四月十三日、大聖人様が御歳五十一歳の時、佐渡の一谷いちのさわにおいてお認したためになられました。

まずはじめに、最蓮房の手紙に、大聖人様と師弟の関係を結ぶことができた悦びの文があることを取り上げ、師弟の関係というものは、過去無量劫からの契約によるものであり、深遠(じんのん)な宿習によることを明かされています。

 さらに、人々を導く師匠には、正師・邪師、善師・悪師の四種あることを示し、いかに世間的名声があり、あるいは出世間的に高徳の人であっても、法華経を誹謗する者は邪悪の師であり、親近(しんごん)してはならない。なぜならば、自分に悪心はなくとも、邪悪の師に近づけば、いつか必ず相手の誤った教えに感化(かんか)されて、正邪の分別を失ってしまうからである、と固く戒められています。

 また、正善(しょうぜん)の師については、法華経に予証される通りに忍難弘教あそばす大聖人様御自身が、末法の法華経の行者にほかならないとお述べになり、  「予は正師なり善師なり」 との大確信を披瀝ひれきされているのです。

(大白法・平成7年4月1日刊 第429号より一部分転載)

 

 


31日

生涯本より思ひ切り了(おわ)んぬ。今翻返(ひるがえ)ること無く其の上又遺恨(いこん)無し。諸の悪人は又善知識なり」

(富木殿御返事 五八四)

 

本抄は、文永九(一二七二)年四月十日、日蓮大聖人様が御年五十一歳の時に、佐渡の一谷いちのさわで述作された御書です。

 本抄は、富木常忍氏が佐渡の大聖人様のもとへ御供養を届けられたことに対する返礼の御消息で、大聖人様が人本尊開顕の書である『開目抄』を述作された二カ月後に著されました。

御自身の生涯は、法難、迫害はもとより覚悟の上で、今になって翻ひるがえることなどなく、後悔もないとして、諸々の悪人は、かえって御自身の化導において善知識であると御教示されます。

 

(大白法・平成28年11月1日刊 (第944号)より一部分転載)