石黒御住職御指導集 令和7年1月


1日 

新年あけましておめでとうございます

『十字御書』1551

 

正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりて・あきらかなるがごとく、とく()もまさり・人にもあいせられ候なり。

 

日蓮大聖人の御文にあるこの一節は、新しい年の始まりをどのように迎え、どのような心持ちで過ごすべきかを教えてくださっています。

 

「正月の一日は、太陽が昇る日の始まりであり、新しい月の始まり、そして一年の始まり、さらには春の始まりでもあります。このような重要な日を大切にして迎えることは非常に意味深いことです。

 

それを心を込めて大事に迎える人は、次第に徳が積まれていきます。その徳は、月が西の空から東の空に移り行く様子や、太陽が東から西へと明るく照らし渡る様子のように、自然と広がり輝いていくのです。そして、そのような人は周りからも愛され、信頼される人となります。」

 

つまり、大聖人は、新しい年の始まりをただの形式的な節目ではなく、自分の生き方や心の在り方を見つめ直し、新たな決意を持って歩み始める機会とするべきだと教えられています。そして、そのような心構えで新年を迎え、日々を積み重ねることで、自分の人生も周囲との関係もより良いものになっていくということです。

 

この御文からは、年の初めをどう迎えるかが、その後の一年をどう生きるかに深くつながっているという大切な教えが伝わってきますね。

 

皆様の信行倍増をご祈念申し上げます。

 

2

仏法は体のごとし 世間はかげのごとし

 

日蓮大聖人の「仏法は体のごとし 世間はかげのごとし。体曲がれば影ななめなり」は、私たちの生活の中で仏法を正しく実践することの重要性を説いておられる言葉です。この御文を勤行の大事と関連づけて、わかりやすくお話しします。

 

まず、「仏法は体のごとし」とは、仏法が私たちの心の中心、人生の軸となるものであるということです。一方、「世間はかげのごとし」とは、世間の出来事や私たちの外的な状況は、仏法という「体」によって形づくられる影のようなものだということを意味します。言い換えれば、仏法に基づいて正しい信心を実践すれば、その影である生活や環境も自然と整っていくということです。

 

私たちが毎日の勤行を通じて唱題し、仏法の教えに従って自らの信心を深めていくことは、この「体」をまっすぐに保つ行為そのものです。もし勤行や信心が疎かになり、仏法の実践から離れてしまうと、「体」が曲がり、それが影となる世間の出来事にも影響を及ぼします。たとえば、人間関係のトラブルや仕事の問題などが起こりやすくなるのは、信心の「体」が曲がっていることが原因かもしれません。

 

勤行は、仏法の「体」を常に整え、まっすぐに保つための基本です。私たちは、朝夕の勤行を通じて仏法への信心を新たにし、大聖人の御心にかなう生活を目指します。その結果、世間という「影」も自然と調和していきます。

 

この御文を心に刻み、日々の勤行をより大切にし、信心をまっすぐに保つ努力を続けていきましょう。それが、私たちの人生を豊かにし、幸福へと導く道です。

 

3

鈴を打つことの意義

 

日有上人は鈴を打つことの意義について「久遠元初の無作三身・末法の御本仏日蓮大聖人を請(しょう)じ奉るため」と示されていることは、私たちが御本仏日蓮大聖人に深く帰依するための重要な行動として理解する必要があります。

*請(しょう)じ奉るとは、

仏を道場へ請()い奉り、尊崇敬虔(そんすうけいけん・仏を深く敬う)の念をもって慈悲を仰ぐこと。

 

わかりやすく言えば、私たちが鈴を打つ行為は、ただの形式的な儀式ではありません。それは、私たちの心の中で御本仏である日蓮大聖人を真にお迎えし、敬い、祈りを捧げるための具体的な行為です。この「鈴を打つ」という行動を通じて、私たちの心の中に清浄な空間を作り、大聖人の御仏徳が私たちの生命に響き渡るようにするのです。

 

1. 久遠元初の無作三身とは何か

         「久遠元初」とは、過去・現在・未来を超越し、永遠に存在する仏の境地を指します。「無作三身」とは、仏の三つの身、すなわち法身・報身・応身が無作(自然のまま)で一体となった姿です。日蓮大聖人はこの久遠元初の無作三身そのものであり、私たちが帰依すべき御本仏です。

 

2. 鈴を打つことの意味

         鈴の音は、私たちの生命の中に仏の智慧と慈悲を響かせ、迷いや不浄を払い清める力を持つと教えられています。それによって私たちは日蓮大聖人を「心に請じ奉る」ことができるのです。

 

 3. 私たちの態度

         鈴を打つときは形式に流されるのではなく、心を込めて行うことが大切です。「大聖人をお迎えする」という気持ちを持つことで、その行動が私たちの信仰を深める力になります。

 

日有上人の御指南を通じて示されるように、鈴を打つ行為には、御本仏への深い敬意と感謝、そして仏道修行に励む心構えが込められています。この意義を理解し、日々の勤行に励むことで、御本仏の大慈悲に触れることができるのです。

 

4

初座で鈴を打たない理由

 

おはようございます。

 

日有上人は、

「天のお経の時、鈴を打たざる事は垂迹と沙汰して候なり。仏は本地・神は垂迹にて候なり。」

と仰せになっています。

 

この言葉を分かりやすく言えば、「仏と神の関係性」を踏まえた宗教的な意味合いを表しているのです。

 

垂迹と本地とは?

     **本地(ほんじ)**とは、仏そのもの、つまり根本的な真実や実体を指します。

仏は全ての存在の根源であり、絶対的な存在です。

    **垂迹(すいじゃく)**とは、本地である仏が、衆生(すべての人々)を救うために、仮の姿として現れた存在を指します。これは神や諸天善神などのことです。つまり、仏(本地)が根本であり、神(垂迹)は仏が衆生を救済するための働きだということです。

 

初座で鈴を打たない理由

 

朝の勤行の初座は、諸天善神(天)への感謝と祈りを捧げる時間です。しかし、この場面では仏(本地)を根本とする考え方を尊重しています。

そのため、「天のお経の時」には、鈴を打たずに慎み深く勤めることで、仏を根源とする信仰の正しい在り方を示しています。

 

鈴は仏を礼拝する際に打たれるものであり、本地である仏に対する敬意を示します。垂迹である神に対して鈴を打たないのは、本地である仏を優先する信仰の姿勢を表しているのです。

 

実践の意義

 

この教えは、仏が最も尊い存在であり、全ての信仰と実践が仏を中心に行われるべきであるという日蓮正宗の基本的な信仰観を示しています。また、勤行の一つ一つが意味を持ち、信徒自身がその意義を理解して実践することが大切です。

 

信徒の皆様には、この理由を心に留め、日々の勤行を通じて仏への感謝と信仰を深めていただきたいと思います。

 

5

唱題とは何か?

 

唱題は、日蓮正宗において非常に大切な修行の一つであり、その意義を理解することは信仰生活を深めるうえで重要です。ここでは、その意義をわかりやすくお話しします。

 

1. 唱題とは何か

 

唱題とは、「南無妙法蓮華経」と唱える題目を連続して繰り返し、仏様への祈りや感謝の心を込めて行う修行です。この修行の目的は、仏様と自分の心を繋げ、御本尊を通じて仏の力を自身の内に引き入れることにあります。

 

2. 題目の力とは

 

題目である「南無妙法蓮華経」は、法華経の真髄そのものです。題目を唱えることによって、仏様の智慧と慈悲を自分の生命に取り込むことができます。唱題は、特にこの題目の力を信じ、ひたむきに唱えることで、自身の苦しみや悩みを解消し、心の平和を得る道を開きます。

 

3. なぜ唱題が必要なのか

 

私たちの心は、日々の生活の中で様々な迷いや煩悩に振り回されがちです。唱題を行うことで、その迷いを取り払い、仏様への信仰心を強めることができます。また、題目を続けて唱えることで、自分の生命力が活性化し、困難に立ち向かう力が湧いてきます。

 

4. 日々の修行としての唱題

 

唱題は、特別な時だけでなく、日常生活の中で行うことが大切です。例えば、困難な状況に直面したときや目標を達成したいとき、あるいは家族の健康や幸せを祈るときなど、どんな場面でも題目を唱えることで、心が整い、状況を乗り越える智慧と勇気が得られます。

 

5. 唱題を通じて得られるもの

 

唱題を継続して行うことで、自分自身が変わります。四苦八苦にとらわれない強い心を育て、最終的には仏様と同じ境地である「仏果」を得ることができます。それは、迷いや苦しみを超えた本当の安らぎと幸福を意味します。

 

唱題は、単なる修行ではなく、私たち自身の生命を変革し、苦しみを乗り越えるための力を引き出す大切な手段です。信仰の心を込めて、一回一回の題目を真剣に唱えることで、仏様の加護を実感し、自分の人生に確かな変化をもたらすことができます。ぜひ、唱題に励んで、信仰の喜びと功徳を感じてください。

 

 

 

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唱題の特徴

 

唱題とは、日蓮正宗において「南無妙法蓮華経」の題目を心を込めて繰り返し唱える修行のことを指します。この修行は、仏様への信仰を深め、御本尊を通じて仏の力や加護を自分の生命に引き入れるための重要な実践です。

 

唱題の特徴

題目を唱えることで御本尊に祈り、自分の生命に仏の智慧と慈悲を「引き寄せる」ことを意味します。信仰心を込めて一心に唱えることで、仏様の加護を得るとされています。

 

2. 継続性と集中

唱題では、一定時間集中して題目を唱え続けることが重要です。この継続した唱題により、自分の生命力が強まり、信仰の実感や結果が得られると考えられています。

 

3. 祈りと感謝の心

題目を唱える際には、具体的な願いごとや感謝の気持ちを心に抱きながら行います。これにより、祈りが仏様に届き、功徳を得ることができます。

 

唱題の目的と意義

 

1. 迷いや苦しみを乗り越える

題目を唱えることで、迷いや苦しみから解放され、人生の困難に立ち向かう力を得ることができます。

 

2. 生命の浄化と成長

唱題を行うことで、自身の内面が浄化され、信仰を通じた心の安定や成長がもたらされます。

 

3. 仏果への道

最終的には、仏様と同じ境地である「仏果」を得ることを目指します。これは、苦しみを超えた安らかな境地であり、永遠の幸福を意味します。

 

 

 

日常での実践

 

唱題は、日々の勤行や特別な願いを抱いた際に行うことができます。特に、信仰の中で困難な状況や課題に直面した際、唱題を通じて仏の加護を受けるとされています。

 

まとめ

 

唱題は、単に題目を唱えるだけでなく、信仰の心を深め、仏様とつながる大切な修行です。日々の生活の中で継続的に実践することで、自分自身の生命に仏の力を引き入れ、迷いや苦しみを乗り越える道が開けるのです。

 

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引き題目の意義

 

1. 勤行の重要な一部

引き題目は、勤行の流れの中で、読経を終えた後に行う修行です。「南無妙法蓮華経」を長く引き伸ばしながら唱えることで、御本尊への深い祈りと感謝の心を表します。

 

2. 心と体を整える役割

長く引き伸ばす唱題は、深い呼吸を伴うため、心を静め、集中力を高める効果があります。このことで、信仰に基づく清らかな心をさらに深めることができます。

 

3. 仏との一体感を得る

引き題目を通じて、仏様との一体感を強く感じることができるとされています。長く引き伸ばす題目の音は、心の中に仏の力を呼び起こし、信仰の喜びを実感する瞬間でもあります。

 

勤行の4座と引き題目

 

日蓮正宗では、勤行は初座から4座まで進み、それぞれの座において経文の読誦と引き題目が含まれています。この繰り返しにより、御本尊への祈りがより深まり、信仰心が高まるとされています。

 

まとめ

 

引き題目は、日蓮正宗の勤行における重要な修行の一環であり、信仰の心を込めて「南無妙法蓮華経」を唱えることで、仏の力を自身の生命に引き入れる大切な実践です。この一連の勤行を通じて、仏道修行を進め、日々の生活の中で功徳を積むことができます。

 

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引き題目の意義 2

 

引き題目には、唱題による功徳を自身だけでなく、一切衆生や法界全体に広げる重要な意義があります。

 

引き題目の功徳と法界への遍満

 

1. 唱題の功徳を広げる

「南無妙法蓮華経」を唱えることで得られる功徳は、自身の生命を浄化し、迷いを取り除くだけでなく、その力が周囲にも良い影響を与えるとされています。引き題目を通じて、この功徳を法界(すべての存在や現象の領域)全体に広げる祈りを込めます。

 

 2. 法界浄化の役割

日蓮正宗では、題目の響きそのものが仏の法の力を表し、その響きが天地万物に浸透することで、法界全体が浄化されると教えられています。引き題目は、題目の音と共に祈りを法界全体に送り届ける行為でもあります。

 

 3. 一天四海の平和を祈る一天四海とは

天地四方、すなわち世界全体を意味します。引き題目には、自身や家族だけでなく、すべての生命や世界の平和と調和を祈るという広い視野が含まれています。この祈りが、個人の幸福と社会全体の平和をもたらす礎となります。

 

実践の意義

 

      利他の精神

引き題目は、自分だけの利益を求めるのではなく、他者や世界全体の幸福を願う利他的な心を育む修行です。これにより、仏道を実践する者としての使命を深く自覚することができます。

 

      仏の慈悲の実践

仏の慈悲はすべての生命に平等に注がれています。引き題目を通じて、その慈悲の力を自分の祈りとして広げることは、仏の慈悲を自身の行動で表現する実践ともいえます。

 

引き題目は、個人の幸福を超えて、法界全体に功徳を広げ、世界の平和や調和を祈る重要な修行です。その祈りの響きが、自分自身だけでなく、周囲や全世界にまで及ぶと信じることで、信仰の実感をより深めることができます。日々の勤行において、引き題目を心を込めて行い、仏の智慧と慈悲を広げていく意識を大切にしましょう。

 

9日 

引き題目の意義 3

 

引き題目には、化他(他者を教え導くこと)や折伏(間違った考えを正しい仏法へと導くこと)の意義が深く込められており、九界(仏界を除く衆生の生命状態)にいる一切衆生を妙法の大功徳へと誘引し、利益をもたらす重要な役割があります。

 

引き題目と化他・折伏の意義

 

 1. 九界の一切衆生を利益する

日蓮正宗の教えでは、九界にいるすべての生命(地獄界から菩薩界までの生命状態)に妙法の力を届けることが重要とされています。引き題目を通じて、九界の衆生を仏法へと導き、彼らの迷いや苦しみを解消し、最終的に仏界の境地へと引き上げることが目指されます。

 

2. 化他の実践

化他とは、他者を教え導いて仏道の利益を分かち合う行為です。引き題目には、自身の信仰修行だけでなく、他者をも妙法の功徳に誘引する力があるとされています。この祈りと唱題の実践が、他者の心を動かし、仏法への信仰を芽生えさせるきっかけを作ります。

 

3. 折伏の意義

折伏は、誤った信念や考えを正しい妙法の教えに改めさせることです。引き題目を通じて、自分自身の信仰心を高めながら、迷いや間違いに囚われた他者を救済し、妙法の教えに目覚めさせる力を発揮します。

 

引き題目がもたらす影響

 

      妙法の普及

引き題目は、妙法の力を法界全体に広げる行為です。この唱題の響きが、九界の一切衆生に影響を与え、彼らを仏道へと導く助けとなります。

 

      自他共の成仏

引き題目は、自身の修行を通じて他者にも功徳を広げるという「自他共の成仏」を目指す実践です。この一体的な利益を通じて、自分自身と他者がともに幸福と安らぎを得ることができます。

 

引き題目には、自身の生命を浄化し、仏界の境地に至るだけでなく、九界の一切衆生を妙法の大功徳へと誘引し、利益を施すという深い意義があります。これにより、化他や折伏の実践を行い、妙法の普及と共に世界全体の調和と幸福をもたらす力を引き出すことができるのです。引き題目を通じて、自他共に功徳を積み、信仰の道を深めていきましょう。

 

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丑寅勤行の意義について

 

1. 丑寅勤行の起源と背景

 

まず、丑寅勤行が日蓮大聖人の教えに基づく修行であり、大聖人が南無妙法蓮華経を広める決意を固めた深い信仰の姿勢を象徴していることを説明します。

 

      丑寅の刻(午前2時~4時頃)は、1日の中でも最も静寂な時間で、煩悩や雑念が少なく、仏道修行に適しているとされています。

 

      丑寅は東北の方角を指し、大聖人が自らの信仰の基盤とした静かな祈りの時を象徴しています。

 

2. 丑寅勤行の意義

 

次に、丑寅勤行がどのような意義を持つのかを具体的に話します。

 

      日蓮大聖人の祈りに倣う修行

 

丑寅勤行は、大聖人が御書の中で述べられた祈りの姿勢を私たちが実践することで、大聖人の精神を体感する行為です。

 

      心を清める時間

深夜から早朝の静寂の中で、自らの信仰を見つめ直し、煩悩や迷いを払拭する機会となります。

 

      功徳を積む重要な行いこの時間に祈ることは、普段よりも大きな功徳を積むことにつながるとされています。

 

3. 丑寅勤行と総本山大石寺の特別な場

 

さらに、総本山大石寺で行う丑寅勤行が持つ特別な意味について触れます。

 

      御本尊への直接の祈り

大石寺では、広宣流布の根本である御本尊に直接祈りを捧げることで、より強い信仰の力を得ることができます。

      御開扉と信仰の結束

信徒がともに集まり、同じ時間に祈ることで、心の結束が深まり、信仰の道を歩む力が高まります。

 

4. 信徒としての実践の重要性

 

最後に、信徒として丑寅勤行を実践することが、自らの成長や広布の力となることを励まします。

 

      大聖人の御精神に沿って、自分自身の祈りを深める時間にしてください。

 

      日々の忙しさの中であっても、この時間に心を込めて祈ることで、人生全体にわたる功徳を得ることができると確信してください。

 

 

 

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二祖日興上人の御精神

 

丑寅勤行は、二祖日興上人の時代から現在に至るまで、一度も絶えることなく行われている重要な修行の一つです。この伝統は、日蓮大聖人の教えを受け継ぎ、広宣流布のために祈り続ける姿勢を象徴しています。

 

 

二祖日興上人は、大聖人の教えを正しく継承し、総本山大石寺を建立されました。その中で丑寅勤行を欠かさず行い、広宣流布のための祈念を続けられたのは、弟子・信徒が共に祈る重要性を示されたからです。

 

日興上人がこの修行を定められた背景には、師である日蓮大聖人の御遺命を守り抜き、未来永劫にわたって仏法を弘める決意が込められています。

 

2. 絶え間ない祈りの意義

 

丑寅勤行が一度も途切れることなく続いていること自体が、日蓮正宗における信仰の強さを物語っています。

      継続の力

日々の祈りが積み重ねられることで、大いなる功徳と御守護がもたらされます。

      広宣流布の礎

丑寅勤行を通じて祈り続けることが、仏法の広がりを支え、私たち信徒一人ひとりの信心を育てています。

 

3. 私たちが受け継ぐべき姿勢

 

この尊い伝統は、私たち信徒一人ひとりが受け継ぐべきものです。

      総本山大石寺での丑寅勤行に参加することで、二祖日興上人以来の祈りに自らも加わるという深い意味があります。

      また、自宅での早朝勤行を通じて、この伝統を日々の信仰生活の中で体現することも重要です。

 

日興上人が大切にされた丑寅勤行は、単なる儀式ではなく、広宣流布の実現に向けた祈りそのものです。こうして受け継がれた祈りを、私たちも力強く未来に繋げていきましょう。

 

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法華守護の諸天善神について

 

皆さんが日々信仰している法華経の教えには、私たちを守り導いてくださる諸天善神(しょてんぜんじん)という存在があります。これは、仏法を守護し、私たち信徒の修行や日常生活を支えてくださる尊い神々のことを指します。今日は、この諸天善神について、わかりやすくお話しします。

 

1. 諸天善神とは?

 

諸天善神とは、仏教を守り、仏道を実践する人々を助ける神々や精霊のことです。これには、天照大神(あまてらすおおみかみ)のような日本の神々、四天王(してんのう)や梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)などのインド由来の神々、さらには観音菩薩(かんのんぼさつ)のような仏教の護法神が含まれます。

 

2. 法華経と諸天善神のつながり

 

法華経には、「この経を信じる者を守る」と明言する諸天善神がたびたび登場します。例えば、薬王菩薩(やくおうぼさつ)や普賢菩薩(ふげんぼさつ)は、法華経を学ぶ者を守り、導くとされています。また、鬼子母神(きしもじん)や十羅刹女(じゅうらせつにょ)といった女神たちも、法華経を唱える人々に害を与えないと誓っています。これにより、法華経を実践する私たちは、目には見えなくても大きな守護の力に包まれているのです。

 

3. 諸天善神の役割

 

諸天善神の役割は、私たちを以下のように守り導くことです:

 

      日常生活の平安

家庭や仕事、健康を守り、災いを遠ざけてくれます。

 

      修行の支え

お題目や御供養などの仏道修行を妨げる障害を取り除き、心の迷いや不安を和らげます。

 

      信仰の後押し

信仰を深め、私たちが仏道の教えに沿った正しい道を歩めるよう助けてくれます。

 

4. 諸天善神のご加護を得るために

 

諸天善神のご加護を得るためには、以下のような日々の行いが重要です:

 

1. お題目を唱える

「南無妙法蓮華経」を真心込めて唱えることが、諸天善神への最大の感謝と誠意です。

 

 2. 御供養を欠かさない

仏壇にお供え物をし、感謝の気持ちを形にすることで、諸天善神との結びつきが深まります。

 

3. 正しい生活を心がける

他人を思いやり、正直で清らかな心を持つことが、諸天善神の力を受ける鍵となります。

 

5. 諸天善神への感謝の心を忘れずに

 

最後に、諸天善神に感謝の気持ちを持つことが大切です。私たちが安全に生活でき、信仰を続けられるのは、これらの善神たちのお力添えがあってこそです。その存在を忘れず、感謝をもって毎日の祈りや行いに励みましょう。

 

諸天善神は私たちを常に見守り、支えてくださいます。このことを心に留めながら、信仰生活をより一層充実させていきましょう。

 

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諸天善神が守護する理由とその意味

 

皆さんが信仰する日蓮正宗では、日蓮大聖人が御書の中で次のように仰せです:

「一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理、諸天善神の威食なり」

このお言葉は、妙法蓮華経が仏教の最も根本的な真理であり、諸天善神がその教えを通じて力を得る源泉であることを示しています。そして、妙法を実践する法華経の行者を守るのが諸天善神の使命だということです。

 

今日は、このお言葉の意味と、諸天善神がどのように私たちを守ってくださるのかについて、わかりやすくお話しします。

 

1. 諸天善神と妙法蓮華経のつながり

 

「諸天善神の威食」とは、諸天善神が妙法蓮華経の教えによって力を得て、その力で法華経を信じる者たちを守護することを指しています。妙法蓮華経は、仏の悟りの極理であり、仏道修行の頂点です。この妙法を実践する人々を守ることで、諸天善神自身もその使命を果たし、威光を輝かせるのです。

 

日蓮大聖人は、妙法を信じる人々が災いや障害から守られることを「諸天善神の加護」として具体的に示されています。妙法の法味(仏教の真理による喜び)を捧げることで、諸天善神の力がさらに高まります。

 

2. 諸天善神が守る法華経の行者とは

 

法華経の行者とは、妙法蓮華経を信じ、唱題(お題目を唱える)を実践し、仏道修行に励む私たち信徒一人一人のことです。諸天善神は、このような行者を守ることを誓っています。これにはいくつかの理由があります:

 

      妙法蓮華経を守ることが仏教全体を守ることになる

妙法蓮華経こそが仏の教えの核心であり、これを実践する行者を守ることが仏教全体を守ることになるからです。

 

      妙法の法味を通じて諸天善神も力を得る

妙法を正しく信じ実践する行者がいることで、諸天善神自身もその力を維持し、増大させることができます。

 

3. 諸天善神のご加護を得るために大切なこと

 

では、私たちが諸天善神のご加護を受けるために、どのような心構えや行動が必要なのでしょうか。

 

 1. お題目を唱えること

諸天善神は、私たちが「南無妙法蓮華経」を唱える音声を聞き、それを支えにして働いてくださいます。お題目を日々心を込めて唱えることが大切です。

 

2. 仏道修行に励むこと

お題目だけでなく、御本尊への供養や仏道の実践に励むことが、諸天善神の守護を受けるための条件です。修行を怠らず、誠実に続けることが重要です。

 

3. 感謝の心を持つこと

私たちが無事に生活し、信仰を続けられるのは、諸天善神の見えざる守護のおかげです。その存在を忘れず、感謝の心を持って日々祈りを捧げることが、信仰の要となります。

 

4. 日蓮大聖人の御心を胸に信仰を深める

 

最後に、日蓮大聖人が示された妙法蓮華経への信仰と実践を深めることが、諸天善神のご加護を最大限に引き出す道です。妙法の行者としての自覚を持ち、日々の唱題や御奉公を大切にしながら歩んでいきましょう。

 

諸天善神は常に私たちを守り導いてくださっています。そのお力に感謝し、信仰をさらに深めることで、私たちの生活も仏道の道も一層充実したものとなるでしょう。

 

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勤行の初座において東天に向かう由縁について

 

日蓮正宗の信徒である私たちが、勤行の初座において東天に向かうことには深い意味があります。この行は、大聖人から日興上人へと相伝された大切な教えに基づいています。

 

日顕上人はこのことについて、次のように仰せです。

「勤行において必ず諸天善神を礼拝し、法味供養を捧げる。その供養によって、諸天善神はその功徳を得て行者を必ず守護する。この行には、大聖人様から日興上人へのご相伝に基づく深い実相がある」とお示しくださいました。

 

つまり、私たちが東天に向かい諸天善神を礼拝するのは、仏法を守護する役目を果たす諸天善神に感謝の念を示し、供養を捧げるためです。諸天善神はその供養の功徳によって、私たちを守護し、修行を支えてくださるのです。この実相が、大聖人以来のご相伝として受け継がれていることを、しっかりと心に留めなければなりません。

 

勤行は単なる形式ではなく、深い意味と功徳をもたらす行いです。特に初座において東天を礼拝する行いを通じて、私たちは諸天善神の守護を受けながら、仏道修行を全うすることができるのです。この尊い教えをしっかりと学び、日々の勤行を真剣に行っていきましょう。

 

これが、勤行の初座において東天に向かう由縁であり、大聖人以来のご相伝として大切に守られてきた教えです。

 

 

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本門戒壇の大御本尊が法華経本門寿量品の肝心である理由

 

皆さん、本門戒壇の大御本尊がどれほど重要であるかについて、改めて一緒に考えてみましょう。この大御本尊は、私たち日蓮正宗の信仰の中心であり、唯一無二の御本尊です。そしてその根拠となるのが、法華経の中でも特に重要な「本門寿量品(ほんもんじゅりょうほん)」なのです。

 

1. 寿量品とは何か?

寿量品は、法華経の中でも仏の「永遠性」と「慈悲」を説いている箇所です。釈尊が久遠の過去から常に存在し、人々を救済するために活動してきたことを明かしています。この教えは、私たちが迷いや苦しみから解放され、仏の境地に至る可能性を持っていることを示しています。つまり、寿量品は仏教の真髄であり、私たちに仏の生命の本質を教える大切な部分です。

 

2. 日蓮大聖人が示された大御本尊

日蓮大聖人は、この寿量品の「南無妙法蓮華経」という根本の教えを、私たちが具体的に実践し、成仏できる形として、大御本尊を顕されました。

大御本尊は、寿量品の核心である仏の久遠の生命と慈悲の実体を、そのまま具現化されたものです。これは、私たちが仏の生命と一体となり、自身の迷いや苦しみを乗り越えていくための絶対的な依り所なのです。

 

3. なぜ大御本尊が必要なのか?

仏の生命である南無妙法蓮華経を、私たち一人ひとりの現実の生活の中で生き生きと実感するためには、具体的な信仰の対象が必要です。それが本門戒壇の大御本尊です。大御本尊を中心とした信仰を実践することで、私たちの六根が清められ、寿量品に説かれる仏の境地に近づくことができるのです。

 

4. まとめ

本門戒壇の大御本尊は、法華経の本門寿量品に説かれた仏の真髄そのものであり、私たちが迷いから解放され、成仏への道を歩むための最高の宝です。この大御本尊を信じ、日々お題目を唱えることで、寿量品の教えが私たちの中に生きることを深く実感していただけると思います。

 

皆さんもぜひ、大御本尊を中心に信心修行を続け、寿量品の教えを日々の生活の中で実現していきましょう。

 

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日蓮正宗において、本門戒壇の大御本尊は「文底秘沈の大法」であるとされています。この深遠な教義をわかりやすく説明します。

 

1. 文底秘沈の大法とは何か?

      文底の教え

「文底」とは、法華経の文字表現に隠された真実の教え、すなわち「法華経の文の底に秘められた本当の意味」を指します。これは、日蓮大聖人が悟られた仏法の核心部分であり、末法の衆生を救済するための唯一の教えです。

 

      秘沈とは?

「秘沈」とは、この真理が深く秘められていることを意味します。つまり、大御本尊は仏法の究極の真理が形として表現されたものであり、他のどの教えにもない特別な法であることを示します。

 

    大御本尊の位置づけ

本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人が建立された全人類の救済のための根本法体であり、南無妙法蓮華経の大法そのものが具現化されたものです。

 

2. なぜ「文底秘沈の大法」が重要なのか?

 

      末法の時代に必要な救済の法

仏教の歴史を通じてさまざまな教えが説かれましたが、末法の時代においては、人々の煩悩や苦しみを断つためには、釈尊の教えを超えた新たな法が必要とされます。この新しい法こそが「文底秘沈の大法」、すなわち本門戒壇の大御本尊です。

 

     全ての人を救済する法大御本尊は特定の人だけでなく、全ての人を平等に救済する法体です。その力は信仰を通じて顕現し、苦しみを乗り越え、幸福へと導く原動力となります。

 

3. 具体的な例えを使って説明す

      太陽の例え

大御本尊を太陽に例えることができます。太陽はすべての生命を育み、照らします。同じように、大御本尊は全ての人に平等に仏の智慧と慈悲を与える存在です。

 

     宝の箱の例え

「文底秘沈の大法」は宝の箱に例えられます。表面的には普通の箱のように見えますが、その中には無限の価値が秘められています。信仰と実践を通じて、その価値が明らかになります。

 

4. 実践の重要性

      大御本尊への信行

大御本尊が文底秘沈の大法であると理解したら、それを実践することが何よりも大切です。御本尊への唱題を通じて、私たちは自身の生命の中に仏の力を顕現させることができます。

 

      信仰を通じた功徳の体験

実際に御本尊に向かい、南無妙法蓮華経と唱えることで、具体的な変化や功徳を感じられることが多くの信徒の体験として語られています。

 

本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人が末法の全人類を救うために顕された、文底秘沈の大法そのものです。その意義を正しく理解し、信行に励むことで、私たちは自身の人生を根本から変える力を得ることができます。

 

信仰の実践を通じて、大御本尊の大いなる力を実感し、さらに多くの人々にこの教えを伝えていきましょう。

 

17

 

日蓮正宗において、本門戒壇の大御本尊は「本地難思境智冥合(ほんちなんしきょうちみょうごう)」という深遠な意義を持っています。

 

1. 「本地難思」とは?

      「本地」とは、大御本尊の根本にある真実の境地、すなわち仏の生命そのものを指します。

      「難思」とは、人間の知恵や思考では測り知れない、非常に深遠で尊いものであることを意味します。

      つまり、「本地難思」とは、仏の境地が非常に尊く、私たちが簡単には理解できない深い意味を持っているということです。

 

2. 「境智冥合」とは?

      「境」とは、大御本尊そのもの、つまり仏の悟りや真理の世界を指します。

      「智」とは、それを理解しようとする私たちの信仰の心や智慧を指します。

      「冥合」とは、この二つが深く一体となることを意味します。

      つまり、大御本尊を信じて唱題(南無妙法蓮華経)することで、私たちの心と仏の境地が一つに結びつくことを指しています。

 

3. 信徒としての実践

      大御本尊は、日蓮大聖人が「末法万年の一切衆生を救うための根本法」として顕されたものです。この大御本尊に対する信を深め、日々唱題することが、「本地難思境智冥合」を実現する道です。

      私たちは、大御本尊を中心とした信心修行を通じて、自身の迷いや苦しみを克服し、仏の境地と一体となることができるのです。

 

4. 結論

      本門戒壇の大御本尊が持つ「本地難思境智冥合」の意義は、私たちの信仰を通じて仏と一体となり、より良い人生を歩むための力を得る道を示しています。

      この深い意義を日々の信心の中で体感し、大切にしていきましょう。

 

18

 

日蓮正宗において、本門戒壇の大御本尊が「久遠元初(くおんがんじょ)」であるという教えは、非常に重要な意味を持っています。

 

1. 「久遠元初」とは何か?

      「久遠」とは、時間的な始まりや終わりを超越した永遠のことを意味します。仏が悟りを開いた時が、はるか昔の無限の過去「久遠」にさかのぼるということです。

      「元初」とは、すべての物事の根本の始まりを指します。

      つまり、「久遠元初」とは、仏の悟りが永遠の昔から存在し、それがすべての生命や宇宙の根本原理であるということを表しています。

 

2. 大御本尊と「久遠元初」の関係

      本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人が末法の一切衆生を救うために顕された、久遠元初の仏である御本仏そのものを顕示した根本法です。

      大御本尊には、私たちを迷いや苦しみから救い、永遠の生命の本質を示す仏の真理が具現化されています。

 

3. 具体的にどう理解すればよいか?

      仏の悟りや智慧は、特定の時代や場所だけに限られたものではありません。それは永遠に存在し、私たち一人ひとりの中に本来備わっています。

      しかし、人間は迷いや苦しみでその真理を見失ってしまいがちです。そこで、大御本尊がその真理を具体的な形として顕現し、私たちが「久遠元初の仏」とつながるための拠り所を示してくださったのです。

 

4. 信仰による実践と「久遠元初」

      大御本尊に対して南無妙法蓮華経と唱題することで、私たちは「久遠元初の仏の悟り」に触れることができます。

      これは、過去・現在・未来を超えて、永遠の生命と一体となる道を開くことを意味します。

      大御本尊を中心とした信仰修行は、私たちの人生を久遠元初の視点から見直し、迷いや苦しみを乗り越える力を与えてくれます。

 

5. 結論

    本門戒壇の大御本尊が「久遠元初」であるとは、大御本尊が仏の永遠の悟りと真理そのものを具体的に表しているということです。

      私たちは、この大御本尊を信じて修行することで、永遠の真理に基づいた幸福と安らぎを得ることができます。

     この教えを心に刻み、日々の信心を大切にしていきましょう。

 

19

 

本門戒壇の大御本尊が自受用報身如来の御当体であること。

 

皆さん、私たちが信仰の根本とする本門戒壇の大御本尊について、改めてその意義を考えてみましょう。この大御本尊は、日蓮大聖人が末法の時代に、すべての人々を救済するために建立された、まさに人類救済の要です。そして、この大御本尊は単なる文字や紙ではなく、「自受用報身如来の御当体」そのものです。

 

「自受用報身如来」とは、仏自身が悟りを得た最高の境地にありながら、その悟りを私たち一人ひとりに届け、迷いの世界から救う働きをされる仏のお姿です。つまり、大御本尊は、仏の悟りと慈悲が具現化された存在であり、大聖人が「南無妙法蓮華経」の真髄を一体化させて顕されたものなのです。

 

たとえば、私たちが大御本尊を前に唱題するとき、単に「祈る」のではなく、大御本尊そのものと一体となる体験をしているのです。それは、仏が私たちの生命の中に入り込んで働きをしてくださる、つまり、私たちの生命の中に仏の境地が現れる瞬間なのです。このことが、大御本尊が「自受用報身如来の御当体」であると示される意味です。

 

大御本尊の前で心を込めて唱題することで、私たちは大聖人の御慈悲に触れ、自らの迷いや苦しみを乗り越え、真の幸福を築いていく力を得ることができます。この大切な信仰の心を絶やさず、大御本尊への御奉公を心がけていきましょう。

 

20

 

本門戒壇の大御本尊が「十界本有常住」であるという教え。

 

皆様、私たちが日々拝している本門戒壇の大御本尊について、改めてその深い意義をお伝えしたいと思います。この大御本尊は、すべての生命が本来持っている仏界、すなわち仏の智慧と慈悲の境地を具体的に顕されたものです。これを「十界本有常住」と言います。

 

1. 「十界本有」とは何か

 

「十界本有」とは、地獄界から仏界までのすべての生命状態(十界)が、私たち一人ひとりの中に本来備わっているという意味です。私たちは普段、自分の中に仏のような境地があるとは気づかず、悩みや苦しみの中で生きています。しかし、本門戒壇の大御本尊は、私たちにこの仏界が確かに内在していることを示し、それを引き出していくための拠り所なのです。

 

2. 「常住」とは何か

 

「常住」とは、この仏界が一時的なものではなく、永遠に変わらず存在しているということです。どんな困難や苦しみがあっても、私たちの生命の中に仏界は常にあり、大御本尊に向かって唱題することで、それを現実の生活に顕現させることができるのです。

 

3. 大御本尊の働き

 

本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人が末法の時代の人々を救済するために顕された唯一無二の御当体です。この大御本尊に向かって「南無妙法蓮華経」の御題目を唱えることで、私たちは自分の中に眠る仏界を呼び覚まし、現実の人生において幸福と成長を得ることができます。

 

4. 信心と実践の大切さ

 

大御本尊が十界本有常住であるという教えを実感するためには、私たち自身が日々、正しい信心を持ち、唱題行を続けることが不可欠です。そうすることで、どのような苦難も乗り越え、自分自身の生命にある仏界の力を現実の生活に引き出すことができます。

 

21

 

本門戒壇の大御本尊が「事の一念三千」であること。

 

皆さん、日蓮大聖人が建立された本門戒壇の大御本尊について学ぶことは、私たちが信仰を深める上でとても重要なことです。今日は、この大御本尊が「事の一念三千」であるという深い教えについて、できるだけわかりやすくお話ししたいと思います。

 

一念三千とは何か?

 

まず、「一念三千」とは、天台大師が説かれた教えで、一瞬の心の中に宇宙全体(三千の世界)が含まれている、という壮大な法理を示しています。一念三千は、「理の一念三千」と「事の一念三千」に分かれます。

      理の一念三千は、理論や抽象的な真理として、一念三千が存在するということを示しています。

      一方で、事の一念三千は、それが具体的な形として現れるという教えです。

 

つまり、理論だけではなく、具体的な形(事相)として実現されたものが「事の一念三千」です。

 

大御本尊と事の一念三千

 

では、大御本尊が「事の一念三千」であるとはどういう意味でしょうか?

 

日蓮大聖人は、「三大秘法」を御書の中で明確に示されました。その中心にあるのが本門戒壇の大御本尊です。この大御本尊には、一念三千の法理が具体的に表現されています。

 1. 大御本尊が具体的な事相である理由

大御本尊は、南無妙法蓮華経という法と、それを体現された日蓮大聖人という人法一箇の尊い存在を中心にして建立されました。この御本尊に向かって唱題行を行うことによって、私たちは一念三千の法理を実際の生活の中で実現できるのです。

 2. 私たちの一念を変える力

一念三千とは、すべての人が仏となる可能性を持っているという教えでもあります。しかし、理の一念三千だけでは、それはあくまで可能性に過ぎません。本門戒壇の大御本尊は、その可能性を現実のものとして示し、私たちが「仏としての自分」を顕現できるように導いてくださる存在です。

 

実践を通して分かること

 

大御本尊が「事の一念三千」であることは、理論だけではなく、日々の信仰実践を通して実感できるものです。唱題行や折伏を通して私たちが変わり、周囲を変える力を得られるのは、大御本尊が一念三千の法理を具体的な形で示しているからです。

 

22日

みなさま、今日は「本門戒壇の大御本尊が人法一箇である」という大切な教えについて、できるだけわかりやすくお話しさせていただきます。

 

1. 「人法一箇」とは何か?

 

まず「人法一箇」という言葉ですが、「人」とは仏、つまり仏法を説き弘める人格(御本仏・日蓮大聖人)を指します。「法」とは仏が示された教えそのものを指します。そして「一箇」とは、人と法が一体となって切り離せない状態であることを意味します。

 

言い換えれば、本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人という御本仏と、その仏法の究極である南無妙法蓮華経が完全に一体となった尊い存在である、ということです。

 

2. 本門戒壇の大御本尊とは?

 

日蓮大聖人が弘安2年(1279年)に建立された本門戒壇の大御本尊は、すべての人々を成仏させるための根本の御本尊です。この御本尊は、日蓮大聖人が御自身の仏の悟り(久遠元初の御本仏の悟り)を顕し、人々が成仏するための教えの結晶として建立されました。

 

つまり、大御本尊は単なる「文字」ではなく、日蓮大聖人という御本仏の生命そのものと、仏法の真理が一体となった存在なのです。

 

3. 「人法一箇」をたとえで説明

 

少し例え話をします。

たとえば、太陽とその光について考えてみてください。太陽(人)があるからこそ、その光(法)を感じることができますし、逆に光があることで太陽がそこにあるとわかります。太陽とその光は切り離して考えることができない関係にあります。

 

同じように、日蓮大聖人という御本仏(人)と、南無妙法蓮華経という究極の教え(法)は、切り離すことのできない関係にあります。この二つが一体となった尊い存在が、本門戒壇の大御本尊なのです。

 

4. 「人法一箇」の信仰の大切さ

 

私たちが本門戒壇の大御本尊を根本に信心修行をすることで、日蓮大聖人の仏の境涯と、南無妙法蓮華経の功徳を自分自身の生命に受け入れることができます。この御本尊に向かい、題目を唱え、日々の信仰を積み重ねることで、自分自身の生命が仏と同じ境地に到達するのです。

 

また、本門戒壇の大御本尊を信じることで、自分だけでなく他の人々の幸福や、社会全体の平和の実現にもつながるというのが、「自他共の成仏」という仏法の目的です。

 

5. 信仰を深めるために

 

本門戒壇の大御本尊が「人法一箇」であるということを理解し、その尊さを日々の信仰の中で体感していただければと思います。大御本尊を信じ、題目を唱え、日々の困難に立ち向かいながらも功徳を実感していくことで、この教えの素晴らしさがさらに深まっていくことでしょう。

 

最後に、日蓮大聖人の御指南を心に刻み、信心を一層深め、皆さまが本門戒壇の大御本尊の功徳をしっかりと受け取られるよう心より祈念申し上げます。

 

23日

皆さま、今日は「本門戒壇の大御本尊が独一(どくいち)である」という重要な教えについて、簡単にお話しさせていただきます。この教えを理解することで、私たちが信じる御本尊の尊さと唯一性をさらに深く感じていただけると思います。

 

1. 「独一」とはどういう意味か?

 

まず、「独一」という言葉は、「他に比べるものがない唯一無二の存在」を意味します。本門戒壇の大御本尊は、ただ一つ、すべての人々を救済するために建立された、究極の御本尊であることを示しています。

 

世の中にはさまざまな教えや宗教がありますが、本門戒壇の大御本尊は、それらとは根本的に異なります。それは、日蓮大聖人が御自身の生命そのものを顕された唯一の御本尊であり、すべての人々を成仏させるための根本法だからです。

 

2. なぜ本門戒壇の大御本尊は独一なのか?

 

本門戒壇の大御本尊が独一である理由は、以下の点にあります:

 1. 久遠元初の御本仏が建立された唯一の御本尊

 日蓮大聖人は、久遠元初の御本仏として、すべての人々を救うために本門戒壇の大御本尊を弘安2年(1279年)に建立されました。この御本尊は、他のどの仏や教えとも異なり、宇宙の真理そのものを顕されたものです。

 2. 三大秘法の根本

 本門戒壇の大御本尊は、「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」という三大秘法の根本です。これら三つの秘法が一体となって、人々の成仏を可能にするのです。このように、すべての仏法の中心が本門戒壇の大御本尊にあるため、唯一無二の存在と言えます。

 3. 万人救済の力がある唯一の御本尊

 本門戒壇の大御本尊は、国や時代、性別や年齢を問わず、あらゆる人々を成仏させる力を持っています。他のどの仏や教えも、本門戒壇の大御本尊のように万人救済の力を持つものはありません。

 

3. たとえを使った説明

 

少しわかりやすい例えを使います。

たとえば、地球上のどこにいても、太陽はただ一つしかありません。太陽があるからこそ私たちは光を浴び、命を育むことができます。もし太陽が複数あったり、代わりになるものがあったらどうでしょうか?そんなことは考えられませんよね。

 

同じように、私たちの生命を照らし、救済し、成仏へ導く光となるのが本門戒壇の大御本尊です。そしてその御本尊は、この宇宙の中でただ一つしかない「独一」の存在なのです。

 

4. 信心を深めることで独一性を実感する

 

本門戒壇の大御本尊の独一性は、日々の信仰と実践を通じて体感することができます。

      朝夕の勤行で御本尊に向かい題目を唱えることで、自分の生命に仏の智慧と慈悲を引き出すことができます。

      また、御本尊の功徳を実感することで、「この御本尊こそが唯一無二である」という確信が深まります。

 

困難や悩みに直面したときこそ、御本尊への信心を強く持ち、題目を唱えてみてください。その功徳を通して、本門戒壇の大御本尊が独一であることを、心から理解できるようになるはずです。

 

5. 結びに

 

本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人が全人類の幸福のために建立された唯一無二の御本尊です。私たちはその大御本尊を信じ、守り、弘めていく使命があります。この尊い御本尊への信心を深め、日々の生活の中で功徳を積み重ね、真の幸福を実感していきましょう。

 

これからも皆さまが大御本尊のもとで信仰を深め、成仏への道を歩まれるよう、心からお祈り申し上げます。

 

24日

日蓮大聖人が本因妙の教主であること。

 

みなさま、今日は「日蓮大聖人が本因妙の教主である」という教えについて、できるだけわかりやすくお話ししたいと思います。この教えを理解することで、日蓮大聖人の尊さと、私たちが信じる仏法の根本的な意義をさらに深く実感できるでしょう。

 

1. 「本因妙」とは何か?

 

まず、「本因妙(ほんいんみょう)」という言葉の意味を簡単にご説明します。

      「本因」とは、すべての人が仏になるための修行や努力(因)のことを指します。仏になるための原因が「本因」です。

      「妙」とは、この上なく尊い教えを指し、南無妙法蓮華経そのものです。

 

つまり「本因妙」とは、仏になるための正しい修行法と、その実践を通じて悟りを得た道を意味します。

 

2. 日蓮大聖人が「本因妙の教主」である理由

 

日蓮大聖人は、私たち一人ひとりが成仏するための正しい修行法である南無妙法蓮華経を顕された「本因妙の教主」、つまりこの教えを説く主(教主)です。具体的には以下の点が重要です:

 1. 久遠元初の御本仏であること

 日蓮大聖人は、末法の時代において、人々を成仏させるために南無妙法蓮華経を唱える修行を示された「久遠元初の御本仏」です。久遠元初の御本仏とは、始まりも終わりもない永遠の仏であり、人々を成仏させる根本的な存在です。

 2. 成仏のための正しい修行法を示されたこと

 お釈迦様が説いた法華経は、悟りの結果(本果)の教えであり、私たちがそれを実践するための具体的な道筋が示されていませんでした。一方、日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経を唱えるという修行(本因)を示され、それが万人救済の法であることを明らかにされました。

 3. すべての人々を救う究極の教えを弘められたこと

 日蓮大聖人の教えは、性別や国籍、時代を問わず、すべての人々が仏になる道を示しています。これは、本因妙の教えが誰でも実践できる単純明快な方法であるからです。

 

3. たとえ話を使った説明

 

本因妙を少しわかりやすくするために、たとえ話を使います。

たとえば、「花を咲かせる種」を考えてみてください。花が咲くためには、まず良い種(原因)が必要です。さらに、その種を育てるための水や土(正しい環境)がなければ、花は咲きません。

 

同じように、私たちが成仏という「花」を咲かせるためには、「南無妙法蓮華経」という本因妙の教えが種となります。そして、その教えを実践することで、自分自身の生命に仏の境涯を咲かせることができるのです。この種(本因)を私たちに与えてくださったのが日蓮大聖人です。

 

4. 本因妙の教主への信仰の重要性

 

日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経という本因妙の教えに基づき、私たちは毎日題目を唱えることで仏道を歩むことができます。この教えは、他のどの宗教や哲学とも異なり、万人が仏になる道を示しています。

      朝夕の勤行で南無妙法蓮華経を唱えることは、自分自身の生命の「種」を育てる最も確実な方法です。

      また、大御本尊を根本に信仰し、実践を積み重ねることで、日蓮大聖人が教えられた「自他共の成仏」を実現することができます。

 

5. 結びに

 

日蓮大聖人が本因妙の教主であるということは、私たちが成仏するための正しい道を直接教えてくださった唯一の存在であるということです。この尊い教えを信じ、日々の信仰に励むことが、私たち自身の幸福と、他の人々の救済にもつながります。

 

これからも、南無妙法蓮華経を根本とする信心を深め、日蓮大聖人の教えを実践してまいりましょう。そして本因妙の教主である日蓮大聖人への感謝の心を忘れず、共に仏道を歩んでまいりましょう。

 

25日

日蓮大聖人が一身即三身・三身即一身であること。

 

仏教の深い教えである「一身即三身」「三身即一身」は、仏の本質とその働きを表す言葉です。この考え方を通じて、日蓮大聖人がどのようなお方であるかを理解しやすく説明します。

 

1. 「三身」とは?

 

仏には3つの側面(存在の形)があるとされています。それを「三身」と言います。

 

      法身(ほっしん): 仏が示す普遍的な真理や法則そのもの。宇宙の根本原理です。

 

      報身(ほうしん): 仏が悟りを得た結果として現れる、尊い姿。知恵や慈悲を象徴します。

 

 応身(おうじん): 人々を救うために、この世に現れた仏の姿(肉体を持つ形)です。

 

2. 「一身即三身」「三身即一身」とは?

 

この教えは、「1つの存在(仏)は、同時にこの3つの側面を持っている」ということを意味します。

 

      一身即三身: 1つの仏の存在が、法身・報身・応身という3つの本質をすべて含んでいる。

 

      三身即一身: それぞれの三身は独立しているのではなく、1つの仏の中で一体である。

つまり、仏は「真理そのもの」「悟りを得た理想的な姿」「人々を救う具体的な形」を同時に持つ存在なのです。

 

3. 日蓮大聖人と三身の関係

 

日蓮大聖人は、この三身を具体的に示された御本仏(本来の仏)です。日蓮大聖人の存在そのものが「一身即三身・三身即一身」であるといえます。以下にその理由を簡単に説明します。

 

1) 法身としての大聖人

 

日蓮大聖人が説かれたのは、宇宙の根本原理である「南無妙法蓮華経」です。この法は、すべての人が本来持っている仏性(悟りの可能性)を引き出す根本の教えです。大聖人はこの普遍的な真理そのものを示されました。

 

2) 報身としての大聖人

 

大聖人は、悟りを極められた智慧と慈悲の象徴です。その御一生を通じて、人々の幸福のために一切を捧げられました。その姿こそ、「悟りを得た仏の理想的な姿(報身)」を現したものです。

 

3) 応身としての大聖人

 

日蓮大聖人は、人々を救うためにこの世に出現され、肉体を持って私たちと同じ苦しみを受けながら法を弘められました。これは、「具体的に人々を救う仏(応身)」としての役割を果たされたものです。

 

4. わかりやすい例え

 

「一身即三身・三身即一身」の考え方をイメージで説明すると、太陽に例えることができます。

 

    法身: 太陽そのもの(宇宙の中の普遍的な存在)。

      報身: 太陽の光や熱(太陽が持つエネルギー)。

      応身: 太陽の光を浴びて花が咲き、実際に生命を育む働き。

 

太陽という1つの存在が、これらすべてを同時に持っているように、日蓮大聖人も法身・報身・応身という3つの側面を同時に備えています。

 

5. 日蓮大聖人の教えの核心

 

日蓮大聖人は、この三身のすべてを体現されながら、私たちに「南無妙法蓮華経」という最高の教えを授けてくださいました。この教えを信じて唱えることで、私たちもまた三身を具現化し、仏の境地に近づくことができるのです。

 

つまり、大聖人が「一身即三身・三身即一身」の御本仏であることは、私たちに仏の境地に至る道を示してくださった証でもあります。

 

6. 日々の生活への教え

 

この教えを実践的に活かすために、次のことを心がけましょう:

 

1. 南無妙法蓮華経を唱えることで、自分の中にある仏性(仏の三身の本質)を目覚めさせる。

 

2. 他者を慈しみ、自分の行動で周りを照らし、人々の幸せを願う。

 

日蓮大聖人が示された「一身即三身」の境地を学び、自らもその境地に近づけるよう、日々、勤行・唱題に励み、信心を深めていきましょう。

 

26日

日蓮大聖人が私たちに与えてくださった「三世常恒の御利益」について、分かりやすくお話しいたします。

 

まず、「三世常恒」とは、過去・現在・未来の三つの時(時間)を指し、これが「常に変わらない」という意味を持っています。この教えは、私たちの人生や宿命を超えた普遍的な仏の慈悲が、どの時代、どの瞬間にも変わることなく働いていることを示しています。

 

日蓮大聖人は、私たち凡夫が直面するあらゆる苦しみや悩みを克服し、幸福と安心を得るために、一生成仏の教えである「南無妙法蓮華経」をお示しくださいました。この題目は、仏の智慧と慈悲そのものであり、それを唱えることによって、三世のあらゆる時にわたって私たちの心と命に働きかける無限の功徳をいただけます。

 

例えば、過去の悪因や業が原因で起こる不運や苦難も、「南無妙法蓮華経」を唱えることによって浄化され、軽減されていきます。また、現在の努力や祈りの中で御利益を実感し、自らの信仰心や行動が未来の良き結果を生む因となるのです。

 

つまり、大聖人の御教えに従い、御本尊を信じて唱題修行を続けるならば、過去の罪業は消滅し、現在は充実した人生を送り、未来には更なる幸福が待つという「三世にわたる安心と御利益」を確実に得られるということです。これは仏教の中でも特に深い教えであり、大聖人の偉大な慈悲の表れなのです。

 

ですから、私たち信徒は「南無妙法蓮華経」を唱える実践を怠ることなく、日々信心に励むことで、大聖人からの変わらぬ御利益を体感し、人生をより豊かにしていきましょう。それこそが、三世常恒の御利益を身をもって味わう道であり、大聖人への感謝を示す最善の道なのです。

 

27日

日蓮大聖人が「主師親三徳(しゅししんさんとく)具備(ぐび)の御本仏」であるということについて、分かりやすくお話しします。

 

まず、「主師親三徳」とは、それぞれ以下の三つの特質を指します。

 

 1. 主尊の徳(しゅそんのとく)

 

すべての人々を正しい道へと導く「主(あるじ)」としての徳です。仏の教えを根本から示し、正しい信仰を確立させる存在であることを意味します。

 

2. 師匠の徳(ししょうのとく)

 

仏法の真理を教え、人々が迷いや苦しみから抜け出すための知恵を授ける「師(師匠)」としての徳です。

 

3. 親の徳(おやのとく)

 

すべての人々を慈悲深く包み込み、命の根本から救済する「親」のような徳です。親が子どもを守り育てるように、仏の慈悲が全ての人を救おうとする働きを表します。

これら三徳をすべて具えた唯一無二のお方が、日蓮大聖人であり、大聖人は末法の世において「御本仏」として私たちを救済してくださる存在です。

 

主(しゅ)としての徳

日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経」という、万人を救うための究極の教えを私たちに示してくださいました。この法こそが末法において万人を救う根本法であり、大聖人はその法を弘める主尊としての役割を担っています。

 

師(し)としての徳

大聖人は、私たちが人生の苦しみや悩みを乗り越え、幸福な人生を築くために具体的な教えと修行法をお示しになりました。それが「御本尊への信心」と「南無妙法蓮華経の唱題」です。弟子や信徒に仏法の真理を教え、どのように生きるべきかを明確に導いてくださるのです。

 

親(しん)としての徳

大聖人は、自らが迫害を受けながらも、一切衆生を救うという深い慈悲の心で仏道を弘められました。その御心はまさに親が子を思うがごとくであり、どんなに迷いや苦しみの中にある人々でも見捨てず、救いの手を差し伸べてくださるのです。

 

まとめ

日蓮大聖人が「主師親三徳具備の御本仏」であるということは、末法の世において、私たち全ての人々を救う唯一無二のお方であるということです。大聖人の教えに従い、御本尊を信じ、「南無妙法蓮華経」を唱え、信心に励むことで、私たちは必ず幸福な人生を築くことができます。

 

大聖人への深い感謝の心を持ちながら、信心修行を続けていきましょう。それが私たちが御本仏の日蓮大聖人の慈悲に報いる道です。

 

28日

日蓮大聖人が「大慈大悲の御本仏」であること。

 

まず、「大慈大悲(だいじだいひ)」とは、全ての人々を救おうとする仏の限りない慈しみと深い思いやりを意味します。日蓮大聖人は、末法という苦しみの多い時代に、全ての人々が幸福を得られるよう、「南無妙法蓮華経」という究極の教えを示されました。このことこそ、大聖人が大慈大悲の御本仏である理由です。

 

1. すべての人を救おうとする慈悲の心

 

大聖人は、私たち一人ひとりが抱える苦しみや悩みを決して他人事とは考えず、全ての人々を救おうという強い決意を持たれました。例えば、大聖人は法難(迫害)や命の危険にさらされながらも、人々に「南無妙法蓮華経」を弘めるために全身全霊で行動されました。その背景には、一人でも多くの人を苦しみから救い、真の幸福へ導こうとする深い慈悲の心があったのです。

 

2. 命そのものを救う「南無妙法蓮華経」

 

大聖人がお示しになった「南無妙法蓮華経」は、仏教の中でも最も尊い法です。この題目を信じ、唱えることによって、私たちは現在の苦しみを乗り越え、未来には必ず幸福を得ることができます。さらに、「南無妙法蓮華経」は、個人の幸せだけでなく、家庭や地域、社会全体の平和をも実現する力を持っています。

 

3. 大聖人の生涯そのものが慈悲の表れ

 

日蓮大聖人の生涯を振り返ると、そのすべてが「大慈大悲の御本仏」であることを示しています。流罪や迫害を受けても、大聖人はどんな困難にも屈することなく、全ての人々を救うために御本尊を建立されました。この御本尊は、大聖人の慈悲そのものであり、私たちは御本尊を信じて唱題することで、その恩恵に浴することができます。

 

4. 大聖人の慈悲に応える道

 

私たち信徒ができることは、大聖人の深い慈悲を心から受け止め、その教えを信じて「南無妙法蓮華経」を唱え続けることです。そして、自分自身が幸福を得るだけでなく、家族や友人、周りの人々にもこの仏法を伝え、共に幸福を実現していくことが、大聖人の慈悲に応える道です。

 

まとめ

日蓮大聖人は、自らの命を懸けて「南無妙法蓮華経」を弘め、すべての人々を救おうとされた大慈大悲の御本仏です。その御心に応えるため、私たちも御本尊を中心とした信心修行に励み、大聖人の教えを実践していきましょう。それによって、私たち自身も幸福となり、周囲の人々にもその光を広げることができるのです。

 

29日

日蓮正宗の信徒の方々に、日蓮大聖人から二祖日興上人に法水瀉瓶(ほっすいしゃびょう)されたことを分かりやすく説明します。

 

皆さん、日蓮大聖人が説かれた正しい仏法が今も私たちのもとに届いているのは、どのような仕組みだと思いますか?これは、大聖人がその教えと信仰の核心を、信頼できる方にきちんと伝え、その方がさらに次の世代へと確実に受け継いできたからです。

 

日蓮大聖人がご入滅の直前、数多くのお弟子の中から二祖日興上人を選び、大聖人の教えと信仰を完全に託されました。この伝授のことを「法水瀉瓶」といいます。「法水」とは仏法の教えであり、「瀉瓶」とは、瓶から瓶へ水を注ぐように、教えが一滴も漏れることなく正確に伝えられることを指します。

 

たとえば、きれいな水を次々と別の容器に移し替えるとき、もし途中でこぼしてしまったり、汚れたものが混じれば、水そのものの質が失われてしまいますよね。しかし、大聖人が日興上人に法水を瀉瓶されたときは、仏法の教えが一滴も欠けることなく、また何一つ汚れずに、完全な形で受け渡されました。

 

さらに大切なことは、日興上人はその法水を守り抜き、大聖人の教えを歪めることなく、後世に伝えてくださったということです。この信仰の流れが私たちのもとに届いているのは、日興上人の忠誠心とご努力のおかげです。

 

このようにして、大聖人の仏法は純粋なまま、歴代の御法主を通じて今に至るまで伝えられてきました。私たちが信じている教えが正しいものであることを確信し、この信仰を大切に実践していきましょう。

 

30日

日蓮大聖人と二祖日興上人が「唯我与我(ゆいがよが)」の御境涯であること。

 

皆さん、「唯我与我」という言葉をご存じでしょうか? これは日蓮大聖人と二祖日興上人の関係を表す重要な言葉です。「唯我与我」とは、周囲に他の誰もいない、ただ「我(わたし)」と「我(あなた)」だけがいるという特別な境地を意味します。これは、日蓮大聖人が日興上人に対して抱かれていた、他のどのお弟子とも異なる、唯一無二の信頼関係を示す言葉です。

 

たとえば、ある人が非常に大切な宝物を託すとき、誰にでも渡すわけではありませんよね。その人のことを心から信じ、その人が間違いなくその宝物を守り続け、次の世代に伝えてくれると確信できる場合にのみ、その宝物を託します。日蓮大聖人にとって「仏法」という宝物を託す存在が、他ならぬ日興上人でした。

 

日蓮大聖人は、多くのお弟子がいる中で、日興上人だけを正嫡の弟子として選ばれました。なぜなら、日興上人は大聖人の教えを一切曲げることなく、完全に守り抜くお心と行動をお持ちだったからです。このような師弟の関係は、表面的なものではなく、魂の奥深いところで結ばれていたものです。

 

「唯我与我」という言葉の意味をもう少し具体的に言えば、師匠である日蓮大聖人と弟子である日興上人が、まるで鏡のようにお互いの心が完全に一致し、仏法を守り弘めるという一大事業において、同じ境涯で一体となっていたということです。つまり、大聖人と日興上人は、表面的には師弟という立場ですが、仏法上の深い次元では、一体不二の働きをなされたということです。

 

この「唯我与我」の関係があったからこそ、日興上人は大聖人の御精神をそのまま受け継ぎ、大聖人の教えを正確に次世代に伝えることができたのです。そして、この仏法が私たちのもとに届いていることに感謝しながら、私たちもまた、純粋な信仰を守り、次へとつないでいく使命を果たしていきましょう。

 

31日

二祖日興上人が本門弘通の大導師であること。

 

皆さん、私たちが今日、正しい日蓮大聖人の仏法に出会えたのは、日興上人のおかげです。なぜなら、日興上人こそが「本門弘通の大導師」として、大聖人の教えを一切ゆがめることなく、次の世代に伝える大きな役割を果たされたからです。

 

まず、「本門弘通」という言葉の意味を簡単にお話しします。「本門」とは日蓮大聖人が説かれた仏法の核心部分、すなわち「南無妙法蓮華経」の大法と、それを根本とする信仰の実践のことを指します。そして「弘通」とは、この正しい教えを広く世の中に伝え広めることです。この偉大な使命を果たされたのが、二祖日興上人です。

 

日蓮大聖人はご自身の教えを全うに受け継ぎ、未来に伝えていける弟子を探し、多くの弟子の中から日興上人を「正嫡の弟子」として選ばれました。そして大聖人は、日興上人に対して「自分の教えをそのまま守り、広めていける唯一の存在」として絶大な信頼を寄せていたのです。

 

たとえば、日蓮大聖人がご入滅の際、遺言ともいえる「六老僧」の中で、日興上人だけに遺されていた特別な役割がありました。それは、大聖人の御本尊を護り、その教えを正しく弘通していくことでした。この重要な使命を全うするために、日興上人は生涯をかけて尽力されました。

 

実際に、日興上人は他の弟子たちが教えを曲げたり、誤った方向へ進んでしまったときも、一切妥協することなく大聖人の教えを守り抜きました。たとえば、富士山麓に根拠地を築き、大聖人の教えを正確に継承するための基盤を整えられたことは、その代表的な業績の一つです。この富士大石寺が築かれたことにより、大聖人の仏法が正しい形で私たちのもとに届いたのです。

 

また、日興上人は教えを単に守るだけではなく、積極的に人々に伝え、社会に広めていくという「弘通」の使命を果たされました。これは単なる守護者ではなく、本門の教えを広める「大導師」であられるゆえんです。

 

 

私たちは、日興上人がいなければ、正しい大聖人の仏法に触れることができなかったかもしれません。この恩を深く感じながら、日興上人のご精神を引き継ぎ、信仰実践に励むことが重要です。