『総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此(じたひし)の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。若し然らば広宣流布の大願も叶ふべき者か」
(生死一大事血脈抄 五一四頁)
【現代語訳】
『総じて日蓮が弟子檀那等が、自分と他人、彼とこれとの隔てなく水魚の思いをなして、異体同心に南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。
しかも今、日蓮が弘通する法の肝要はこれである。
もし、弟子檀那等がこの意を体していくならば、広宣流布の大願も成就するであろう。
これに反して、日蓮の弟子のなかに異体異心の者があれば、それは例えば、城者にして城を破るようなものである』
生死一大事血脈 生死とは生と死を繰り返す生命自体をさし、一大事とはその極理です。 すなわち、生死一大事とは生命の極理をいい、仏はこれを妙法蓮華経であると明かしたのであります。 血脈とはその仏の悟り、生命の極理が、仏から衆生へ正しく継がれることを言います。
法華経を信ずる人は、臨終の時に必ず多くの仏様のお迎えを受け、歓喜の境界を開くことができるのに対し、不信の人は堕地獄疑いないことをご教示されています。
『異体同心なれば万事を成(じょう)じ、同体異心なれば諸事叶う事なしと申すは外典三千余巻に定まりて候』 異体同心事(いたいどうしんのこと)一三八九頁
【御述作の由来】
本抄は、弘安二(一二七九)年八月、日蓮大聖人が五十八歳の御時、身延より駿河国富士郡上野郷(現在の静岡県富士宮市・総本山の周辺)の地頭であった南条七郎次郎時光殿に宛てたお手紙です。
この年、日興上人と時光殿の教化により、折伏が盛んであった岩本(富士市)周辺地域では、四月八日に熱原郷の信徒・四郎男が何者かに斬りつけられ、八月には弥四郎が斬首される事件が起きました。
そして十月には、熱原の法華信徒二十名が、稲刈りに事寄せて天台宗・滝泉寺の院主代行智一派の謀略により捕縛(ほばく)され、その後、法華経信仰を退転するよう強要されてもこれを拒(こばんだ)ために、中心的信徒の神四郎・弥五郎・弥六郎の三名が処刑されるという、熱原の法難が惹起(じゃっき)したのです。
本抄は、この二ヵ月前に認したためられ、時光殿に御供養の謝礼と、熱原信徒に異体同心の団結を促すものでした。
その後、大法難を迎えた彼らが、様々な脅おどしに退転せず、最後まで不自(ふじ)惜身命(しゃくしんみょう)の信心と異体同心の団結を貫くことができたのは、本抄における大聖人様からの的確な御指南によるものと拝察されます。
大白法・平成15年6月1日刊(第622号より転載)
『日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成(じょう)じて、一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚え候。悪は多けれども一善にかつ事なし。譬(たと)へば多くの火あつまれども一水にはきゑ(消)ぬ。この一門も又かくのごとし。
(異体同心事 一三八九~一三九〇頁)
【現代語訳】
日蓮の一門は異体同心なので、人数は少ないけれども大事を成就して、必ず法華経は弘まるであろうと思われる。悪は多くても一善に勝つことはない。たとえば、多くの火が集まっても、一水によって消えてしまうことはない。この一門もまた同様である。
【拝読のポイント】
信仰における異体同心とは、世間一般でいうところの、同じ考えであること、また単に心を合わせてことに当たるということだけではなくして、一人ひとりが法華経に説かれる、 「一心欲見仏(いっしんよくけんぶつ)不自惜身命」(法華経 四三九頁) との強盛なる大信力を出だして御本尊様に帰命し、御本尊様と境智冥合(きょうちみょうごう)する。さらにその御本尊様と境智冥合した者同士が、広宣流布に向かって御本尊様のもとに同心した姿こそが信仰における異体同心であると言えましょう。つまり正直で強盛な信心の上に成り立つ、御本尊様を通じての異体同心であるということです。
したがって、各自の不退の信心と広布という目的のもとにある異体同心、自行化他にわたる異体同心も、異体同心の信心ではありますが、さらに深く拝するならば、それぞれが決定(けつじょう)した信心により、御本尊様と境智冥合したときに現れてくる造作のない不思議な同心の姿こそ、本宗における真の異体同心と拝察するものです。
(大白法・平成15年6月1日刊 第622号より転載 )
『夫(それ)一切衆生の尊敬(そんぎょう)すべき者三つあり。所謂(いわゆる)、主(しゆう)・師(し)・親(しん)これなり。また習学すべき物三つあり。所謂、儒(じゅ)・外(げ)・内(ない)これなり。
(開目抄上五二三頁)
【現代語訳】
一切衆生がもっとも尊敬すべきものが三つあります。それは主人と師匠と親です。
また、習学すべきものが三つあります。それは儒教(道教もふくむ)と、インド古来のバラモン教の外道と内道である仏教です。
この御聖訓は御書十大部の「開目抄上五二三頁」に記されています。
本抄において大聖人様は、末法の衆生に対する主師親三徳を示されるに当たり、法華経本門の主師親の釈尊をもって一往の究(く)竟(きょう)とされています。しかし、再往は本門『寿量品』の文底に秘沈される一念三千の所有者として、末法出現の法華経の行者たる大聖人様御自身を最後究竟の主師親とされているのです。
これは大聖人様御自身が本尊の当体であること、すなわち人本尊の開顕であり、末法の衆生が即身成仏するための有縁の仏は、熟脱の教主釈尊ではなく、南無妙法蓮華経を下種される日蓮大聖人であることを明示されたものに他なりません。
このように、竜の口の発迹顕本によって凡夫日蓮の迹身を払い、久遠元初の御本仏と開顕された大聖人様の末法御出現の意義を正しく拝すことが、本抄を拝読する上でたいへん重要です。 (大白法・平成28年10月1日刊(第942号)より転載)
『夫(それ)老狐(ろうこ)は塚をあとにせず、白亀(はくき)は毛宝(もうほう)が恩を報(ほう)ず。畜生すらかくのごとし、いわ(況)うや人倫をや。
(報恩抄二九三頁)
【現代語訳】
そもそも、狐は決して生まれた古塚を忘れず、老いて死ぬときにも必ず首を古塚に向けるといわれ、また毛宝(もうほう)に助けられた白亀は、後に戦いに敗れた毛宝を背に乗せて助け、その恩に報いたという。かくのごとく、畜生すら恩を知る。いわんや人間に報恩の心がなくてよいのだろうか。
まして人間である。まして仏法の世界である。そこで裏切りを働くのは、畜生以下である。
報恩抄は日蓮大聖人が十二歳の時、安房の清澄寺に登り十六歳で得度し是生房連長の法名を賜った、師・道善坊の死を弔うとともに、真の「報恩」について解き明かされた法門です。
大聖人は直弟子日向を使として本抄を清澄寺の兄弟子「浄顕房と義浄房」宛に持参させ、故道善房の墓前で本抄を拝読させておられます。
八万四千宝蔵といわれる釈尊の一切経のなかで、最第一の『法』である『妙法蓮華経』を流布し、一切衆生を救済することこそが、師への報恩であることを示されておられます。
これまで、法華講総講頭として皆を導くべき立場にありながら日蓮大聖人・日蓮正宗への大恩を忘れ、裏切った人間が出ました。人間として、これ以上の恩知らずはいません。最高に厳しい仏罰を受けていることは間違いありません。 大謗法者池田大作は重大仏罰を受け無限地獄の責めにさいなまれているようです。(私見) 真偽のほどはよく解りませんが、一説によれば重度の糖尿病で片足切断、これまた重度の認知症で自分が誰であるかも全くわからない無間地獄の状態だそうです。(某出版物の記事です)
釈尊の時代には、提婆達多が出ました。
日蓮大聖人、日興上人の時代には、五老僧が出ました。五老僧は、一番上の弟子です。それが5人も裏切りました。
不思議なことに、卑劣な退転者は、上のほうに現れます。退転し反逆して、最後に無残な仏罰を受けます。それによって、厳しい因果律を明快に皆に見せているのです。ここに、仏法における一つの方程式があります。
『仏教をならわん者の父母(ぶも)・師匠・国恩わするべしや。此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、
知者とならで叶うべきか。』
(報恩抄 九九九頁)
【現代語訳】
『仏教をならう者は、父母の恩・師匠の恩・国家の恩を忘れてはなりません。
この大恩に報いるためには必ず仏法をならい極め、知者となってかなうものである』
「あなたは生まれた時、産湯に1人でつかれましたか。誰もが必ず入るであろう棺桶。そのふたを自分で閉められますか。火葬場まで歩いて行けますか。
私たちは誰かのご厄介にならなければ生きることも死んでいくこともできないのです。
報恩抄は、末法において報恩とは「妙法蓮華経」を説き仏身に入らしめる事であることをあかした書です。八万四千宝蔵といわれる仏法のなかで、最第一の『法』である『妙法蓮華経』を流布し、一切衆生を救済することこそが、師への報恩であることを明かしておられます。
『一切の事は父母(ぶも)に背(そむ)き、国王にした(随)がはざれば、不幸の者にして天のせ(責)めにかう(蒙)ふる。ただし法華経のかた(敵)きになりぬれば、父母・国主の事を用ひざるが孝養ともなり、国の恩を報ずるにて候』
(王舎城事 九七五~九七六頁)
【現代語訳】
『父母や国王に逆らうことは、人間として、不孝・不忠なことですが、法華経に敵対する父母・主君には、反対に従わないことが、かえって真実の孝養・報恩になる』
今日、大謗法者池田大作と、邪教創価学会の人々は、御戒壇様をないがしろにし、血脈付法の御法主上人猊下を、虚言を以て誹毀讒謗(ひきざんぼう)するという、極大謗法を犯し続けています。
よって、今この時こそ、勇猛果敢なる信心を奮い起こし、これ等の悪逆謗法の徒(やから)に対して、毅然(きぜん)とした折伏を行うべきであります。
七百年前、良観等の大謗法の時には、蒙古の国難が起こりました。
池田大作の大謗法により、三宝が破壊されんとする現代においては、世界はロシアによるウクライナ侵略にともなう核・新型コロナ等の疫病・地球温暖化等々により、破滅の淵に立たされています。まさに今日は、人類滅亡の危機的状況にあることを深く認識すべきなのです。
大白法・平成5年4月1日刊(第383号より転載)
『白烏(はくう)の恩を黒烏(こくう)に報ずべし。聖僧の恩をば凡僧に報ずべし』
(祈祷抄 六三〇頁)
(解説)
昔ある国の王様が狩りに出かけ、途中で疲れて草原で寝込んでしまいました。ところが、その草むらの中に、一匹の毒蛇が潜んでいたのです。その毒蛇は王様めがけて忍び寄り、まさに噛かみ付こうとしたときです。どこからともなく、一羽の白い烏(からす)が舞い降りて来て、王様を嘴(くちばし)でつついて目を覚まさせたのです。まさに九死に一生を得たとはこのことでしょう。王様は城に帰り、その白い烏に恩返しをしなければと思い、早速、家来に命じて捜さがさせたのですが、どこにもおりません。
そこで家来の一人がこう言いました。「王様、白い烏はいくら捜してもどこにもおりません。そのかわり黒い烏はどこにでもたくさんおります。その黒い烏に、白い烏から受けた恩を返したらいかがでしょうか」
それを聞いた王様は、「それはよいことに気がついた」と言って、黒烏に恩を返したということです。
これは天台大師の御弟子である章安大師が著した『観心論疏』という書に説かれている話です。
説話中の「白烏」とは、仏様のことで、末法の今は御本仏日蓮大聖人のことです。「黒烏」とは、大聖人の仏法を信心していない、あるいは知らない人たちなどのことです。王様が、生命を救ってくれた白い烏を捜しても、とうとう見つけることができなかったことは、それほど仏様から受けた御恩は大きく、私たちがその御恩を返そうと思っても、とても返し切れるものではないことを教えているのです。
これに対して、世の中には黒い烏はたくさんいます。すなわち謗法の人たちなどです。これらの人々に、白烏すなわち末法の御本仏日蓮大聖人から戴いた御恩を返していけばいいのです。
次下の「聖僧の恩をば凡僧に報ずべし」との御文も同じ意味で、聖僧とは仏様のことで、凡僧とは謗法の人たちなどのことです。
白烏とは聖僧、黒烏とは凡僧のことで、これは聖僧である釈尊の法華経によって成仏を得た諸菩薩・人天・八部等が、その恩を凡僧である末法の法華経の行者に報ずることを譬えたものです。
故に大聖人様は、
「とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならば、いかでか祈りのかなはざるべき」
と、その守護を信じ強く祈念していくならば、どうして祈りの叶わないことがあろうかと仰せられているのです。
どのような困難や障害があろうとも、御本尊様に南無妙法蓮華経の御題目を唱えていけば、諸天善神の守護を得て、必ずその祈りを成就することができるのです。
大白法・平成29年6月1日刊(第958号)より転載
『仏教の四恩とは、一には父母(ぶも)の恩を報ぜよ、二には国主の恩を報ぜよ、三には一切衆生の恩を報ぜよ、四には三宝の恩を報ぜよ。
(上野殿御消息 九二二頁)
上野殿御消息は、建治元(一二七五)年、大聖人 様が五十四歳の御時、身延において認(したため)られ、上野の地頭である南条時光殿に与えられた御消息です。
この時、南条時光殿は十七歳でしたが、亡くなった父の跡を継いで地頭職に就き、一族の頭領として奮闘していました。その高邁(こうまい)な人格と、清浄な信心は、数多(あまた)の檀越(だんのつ)の中でも群を抜いていました。
大聖人様は、時光殿の成長をたいへん喜ばれ、大いに期待なされ、その信心と人格のさらなる成長と錬磨のために「四徳・四恩」について、大慈大悲の御教導をあそばされたのです。時光殿が、後に「上野賢人」と嘉称(かしょう)されることは、本抄などの御指南を心肝に染められたからであると拝せられます。
「四恩」とは、①命を与えてくれた親、先祖の恩 ②師として教導してくれた人々の恩。 ③国土環境の恩 ④三宝の恩(三宝とは仏・法・僧の三つの宝のことを言います)
1) 仏の宝すなわち大聖人様を仏の宝として拝します。
2) 次に法宝とは、大聖人様が説かれた南無妙法蓮華経の大法のことで、本門戒壇の大御本尊様のことです。
3) 最後に僧宝とは、第二祖日興上人様のことです。大聖人様はお悟りになられた仏法のすべてを日興上人様に付嘱されました(これを唯授一人の血脈相承と言います)。付嘱を受けられた日興上人様のおかげで、大聖人様の教えを聞くことができました。そのため、仏法を世の中に伝えられる僧を宝と拝します。
さらにその血脈は、代々御相承されて現代の総本山第六十八世御法主日如上人猊下に続いています。御歴代上人がいらっしゃったおかげで、現代に生きる私たちも正しい仏法を信じ、御題目を唱えることができるのです。そのため代々の御法主上人猊下も僧宝として拝します。
大白法・平成12年11月1日刊(第560号より一部分転載)
『孝と申すは高なり。天高けれども孝よりも高からず。又孝とは厚なり。地あつけれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家よりいでたり。何に況(いわ)んや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし。
(開目抄 上 五三〇頁)
【現代語訳】
孝というのは、最も高い価値があるということである。天は高いけれでも、孝よりも高いということはない。また孝とは、厚いということである。大地は途方もなく厚いけれでも、孝より厚いということはないのである。
この御聖訓が書かれている開目抄は、文永九(一二七二)年二月、日蓮大聖人様が御年五十一歳の時、佐渡の塚原で述作された御書です。
御真蹟(ごしんせき)は、明治八(一八七五)年の身延の大火で焼失しましたが、正和六(文保元・一三一七)年二月二十六日の第二祖日興上人の写本(開目抄要文)が北山本門寺(日蓮宗)に蔵されています。また、江戸時代初期の慶長九(一六〇四)年に御真蹟と対照した写本(御真蹟対校本)が、京都本満寺(日蓮宗)に現存しています。
題号については、大聖人様御自身による撰題で、『開目抄』の「開目」とは、外典・爾前権教・法華経迹門・脱益法華経本門に執着し、真実の三徳を見ることのできない一切衆生の盲目を開く意です。
『父母(ぶも)の成仏はすなわち子の成仏なり。子の成仏はすなわち父母の成仏なり』
(御講聞書 おこうききがき 一八二五~一八二六頁)
【解説】
日蓮大聖人が晩年六老僧に法華経の講義を為し、それを日向(にこう)が筆録したのが本書です。
父母の成仏は、すなわち子供の成仏である。子供の成仏は、すなわち父母の成仏である。
『末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず、父母も即身成仏せん。此第一の孝養なり』
(始聞仏乗義 一二〇九頁)
【現代語訳】
「末代の凡夫がこの法門を聞くならば、唯自分一人だけが成仏するばかりでなく、父母もまた即身成仏するのである。これが第一の孝養である」
『自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし。況(いわう)や他人をや』
【現代語訳】
「自身が成仏せずして、父母を救うことは難しく、ましてや他人を救えるでしょうか。」
つまり、自分自身が仏になることが肝要であり、その功徳を回向することこそ、真の盂蘭盆供養となるのです。しかも、末法今時においては、釈尊の法華経ではなく、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経こそ一切衆生が成仏できる唯一の正法であり、御本尊に題目を唱えたときに、境智冥合して成仏の境界を得るのであり、その功徳によって先祖も成仏できるのです。
建盂蘭盆御書は建治3年(1277年)7月13日、日蓮大聖人56歳の御時、身延から駿河国(静岡県)庵原郡の治部房日位の祖母に与えられた御書です。
盂蘭盆供養の由来を明かされ、そのことに寄せて外道より仏教が勝れ、仏教の中においては小乗経より大乗経が、権大乗よりも法華経が勝れていることを説かれています。
また、成仏は法華経でなければ遂げられないことを明かされ、法華経こそ大善中の大善であると述べられています。
『あひかまえて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。「充満其願(ごがん)、如清涼(しょうりょう)池」「現世安穏、後生善処」疑ひなからん』
(経王殿御返事 六八五~六八六頁)
【現代語訳】
「よくよく心して、信心を奮い起こし、この御本尊に祈っていきなさい。どのような願いも、成就しないことはないのです」
この御文のなかで「充満其願、如清涼池」とあります。これは法華経の薬王品のなかの文であり、「此の経は能(よく)、大いに一切衆生を饒益(にょうやく)して、其の願を充満せしめたもう。清涼(しょうりょう)の池の能く一切の諸(もろもろ)の渇乏(かつぼう)の者に満つるが如く云云」(法華経五三五頁)
との御文の略文です。すなわち、法華経を持つ者は願いがすべてかない、それはちょうど、清涼池、この清涼池と言うのは煩悩の苦熱を取り除く、清く涼しい池という意味です。この清涼池がのどの渇いた者を潤すように、この法華経の功徳がいかに大きいかを示されております。末法に約せば、すなわち大御本尊様の広大なる功徳を示されているのです。
大御本尊様を一心に信じ行じていくことによって、諸願も成就していくことを御教示なさっています。
これらの功徳も、私たちの信心が強盛であればこそ顕現することを深く銘記しなければなりません。
(大白法・平成19年1月16日刊より抜粋)
今日は盂蘭盆会です。盂蘭盆会にちなんだ御聖訓です。
『七月十五日に十方の聖僧をあつめて、百味飲食(をんじき)を調えて、母の苦は救うべしと云々。目連、仏の仰せのごとく行いひしかば、其の母は餓鬼道一刧の苦を脱れ給ひきと、盂蘭盆経と申す経にとかれ候。其れによて滅後末代の人々七月十五日の此の経を行なひ候なり。此は常のごとし』
(盂蘭盆御書 一三七五頁)
【現代語訳】
目連は神通力で食物や水を送って母を救おうとしたが、かえって苦悩を増すばかりだったので、嘆いて釈尊に指導を求めたところ「七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味 飲食(をんじき)を調(ととの)へて母の苦をはすく(救)うべし」と教えられ、そのとおりにしたところ、母は餓鬼道の苦悩を免れることができたというのです。
西晋の竺法護訳の仏説盂蘭盆経によれば、その後で目連は「未来世の一切の仏弟子で孝順を行ずる者にも、この盂蘭盆によって、現在の父母から七世の父母に至るまで救わせたい」と願ったところ、釈尊は「私の欲するところである」と重ねて盂蘭盆の供養を勧めた、とあります。
実際の盂蘭盆会は、中国では梁の大同四年(五三八年)に同泰寺で最初に行われて以後、唐代に広まったといわれ、日本では斉明天皇の三年(六五七年)に飛鳥寺で行われたのが初めとされ、宮中でも盆供が供えられるようになり、後に民間の行事となったとされています。
『弥(いよいよ)貴公の慈誨(じかい)を仰ぎ、益(ますます)愚客の癡心(ちしん)を開き、速やかに対治を廻(めぐ)らして早く泰平を致し、先ず生前を安(やす)んじ更に没後(もつご)を扶(たす)けん。唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡(いまし)めんのみ。
(立正安国論 二五〇頁)
【現代語訳】
『さらにあなたの慈しみ深い教えを仰ぎ、さらに愚かな人たちの悪しき心を開き、速やかに悪を退治し、早く国家泰平となるよう、まずはこの世を平安にして、死後の世への功徳を積んでいきたいと思います。ただ私だけが信じようとするのではなく、他の人の誤りを正したいと思います』
この御聖訓は「立正安国論」の最終段に記されている御文です。
立正安国論は、文応元(一二六〇)年七月十六日、日蓮大聖人様が三十九歳の御時に、宿屋光則を通して、鎌倉幕府の最高権力者であった五代執権の北条時頼(最明寺入道)に対して奏呈された国主諌暁の書であり、主人と客の十問九答からなる問答形式によって構成されています。
御書234頁~250頁の間17頁に亘る長文の御書です。一度拝読されます事をお勧め致します。
『されば法華経の行者の祈る祈りは、響きの音(こえ)に応ずるがごとし。影の体(かたち)にそえるがごとし。すめる水に月の映る(うつる)がごとし。方諸(ほうしょ)の水をまねくがごとし。磁石の鉄をすうがごとし。琥珀(こはく)の塵(ちり)をとるがごとし。 あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし。
(祈祷抄 六二六頁)
【現代語訳】
「法華経の行者が祈る祈りは、響きが音に応ずるように、影が身体に添うように、澄んだ水に月が映るように、方諸(鏡の一種)が水を招くように、磁石が鉄を吸うように、琥珀が塵を取るように、明らかな鏡が物の色を浮かべるように必ず叶うのである。」
法華経の行者の祈りは、必ず叶うことを断言された御文です。
引かれた譬えが、いずれも自然の道理、事実の姿であることに、日蓮大聖人の強い御確信をみる思いが致します。
音には響きが応ずるように、体に影が従うように、法華経の行者の祈りのあるところ、そこに結果が出ないわけはありません。祈りに応じて、自己の生命の色心にわたる回転が起こり、また依報もそれに呼応して動くとの仰せであります。
ここで「法華経の行者の祈る祈」と述べられていることに注意をはらわなければなりません。法華経の行者すなわち実践者とは、別しては末法御本仏日蓮大聖人、総じては日蓮大聖人の教えのままに信心修行に励み、広宣流布に遁進する私たちのことになるのは言うまでもありません。法華経の行者の祈りは叶う。しかし、爾前権教の人の祈りは、根本的に叶わない。
私たちは、御本尊様に対する絶対の信心と、自行化他にわたる果敢な実践に取り組むことによって、どのような祈りも叶うことを確信しましょう。
(大白法・平成29年6月1日刊(第958号)より一部分転載 )
『大地はさゝばはずるゝとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみ(満)ちひ(千)ぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかな(叶)わぬ事はあるべからず』
(祈祷抄 六三〇頁)
【現代語訳】
「たとえ、大地をさして外れることがあっても、大空をつなぎ合わせるものがあっても、潮の満ち干がなくなることがあっても、太陽が西から昇るようなことがあっても、法華経の行者の祈りが叶わないことは絶対にないのである」
◆日寛上人の『観心本尊抄文段』に、
「此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙(みよう)用(ゆう)有り。故に暫(しばら)くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶かなわざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり」(御書文段 一八九㌻)
と示されるように、御本尊様に強盛に祈るならば、叶わない祈りなどなく、また滅しない罪などなく、大功徳を成就するのです。
私たちは、御本尊様に対する絶対の信心と、自行化他にわたる果敢な実践に取り組むことによって、どのような祈りも叶うことを確信しましょう。
(大白法・平成29年6月1日刊(第958号)より転載)
『袋きたなしとて金(こがね)を捨つる事なかれ、伊蘭(いらん)をにくまば栴檀(せんだん)あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はば蓮(はちす)を取るべからず』
(祈祷抄 六三〇頁)
【現代語訳】
袋が汚いからと、中の黄金を捨ててはならない。伊蘭※の臭いを厭(いと)うて栴檀の香りは得られない。谷の池を汚いと嫌っては蓮(はちす)を取ることはできない。
行者を嫌い守護されなければ、仏前での誓いを破られることになるだろう。
末法の法華経である文底下種の本尊、すなわち南無妙法蓮華経の御本尊様を深く信じて、題目を唱える私たち衆生の信力・行力によって、御本尊様の仏力・法力があらわれ、いかなる祈りもかない、即身成仏できるのです。
※伊蘭(いらん)
屍(しかばね)のような悪臭を放つ木。色は緑色または赤色を帯び、楓(かえで)のように七つに裂け、種子には毒分があり、油を搾って下剤として使われるという。観仏三昧海経巻一には、香木たる栴檀は、伊蘭の林の中から生じ、栴檀の葉が開くと、四十由旬の広さにわたって伊蘭の悪臭が消えるとある。伊蘭を煩悩に、栴檀の妙香を菩提に譬えられています。
『日蓮悲母(はは)をい(祈)のりて候ひしかば、現身(げんしん)に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をの(延)べたり。今女人の御身として病を身にうけさせ給う・心みに法華経の信心を立てて御らむあるべし』
(可延定業御書 七六〇頁)
【現代語訳】
「日蓮が、自分の母の重病を祈ったところ、現実の身体の病を治しただけでなく、四年の寿命を延ばし、病気という宿業を打開したのである。今、あなた(富木尼御前)は、女性の身として病気になられた。試しに、女人成仏を唯一説いている法華経の信心を発して、修行してごらんなさい」
本抄は、文永十二(一二七五)年二月七日、日蓮大聖人様が五十四歳の御時に、富木常忍の女房である尼御前に宛て認(したた)められた御消息です。
大聖人様の御祈念によって御母上は四年の延寿を遂げられたことを挙げられ、女人の身として病を身に受けた尼御前に対して、一層、法華経の信仰を受持して、病を平癒することを勧められます。
『此の曼荼羅能(よ)く能く信じさせ給うべし。南無妙法蓮華経は師子吼(く)の如し。いかなる病さは(障)りをなすべきや』
(経王殿御返事 六八五頁)
【現代語訳】
「この曼荼羅(御本尊)をよくよく信じなさい。南無妙法蓮華経は師子吼のようなものである。どのような病が、障りをなすことができようか」
本抄は、経王御前が病気になったことを知らされた大聖人が、その親にあてられた御手紙です。
御本尊を深く信じ題目を唱えることで、病苦を打ち破っていけると励まされています。
私たちの周りには、病気で苦しんでいる人、人間関係や経済的な問題など、悩みを抱えている人がいます。苦しい状況に、「この信心は本当に正しいのだろうか」と疑う心が生じる人もいるかもしれません。
しかし、大切なことは、「能(よ)く能く信ぜさせ給(たも)うべし」とあるように、たとえどのような状況にあったとしても、疑う心をぬぐい去り、「絶対に祈りは叶う!」「困難を乗り越えてみせる!」と強い確信を持って、題目を唱え抜くことなのです。とお教えです。
『すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か。命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ』
(法華証明抄 一五九一頁)
【現代語訳】
「もはや成仏しそうになったので、天魔・外道が病をつけて脅かそうとしているのであろう。命は限りがあることであり、少しも驚いてはならない」
日蓮大聖人は南条時光殿に対して、まず「命はかぎりある事なり・すこしも・をどろく事なかれ」と、揺るぎない、覚悟の信心に立つよう励まされています。
南条時光殿を悩ます鬼神に対して、冒頭に記されているように「法華経の行者」すなわち末法の御本仏の御立場から、厳然と呵責されるのです。
すなわち、過去に十万億の仏を供養したという大善根をもっている時光を苦しめようなどとは、鬼神の分際としては、とんでもないことで、自らに大罪大罰を招く行為である。なぜなら、あらゆる鬼神の首領格である鬼子母神・十羅刹女が、法華経の会座で「法華経の行者を悩乱する者に対しては頭を七つに破って罰する」と誓っているのであるから、時光を悩ましている鬼神は、鬼子母神・十羅刹による処罰にあうだろうからです。
しかも、その罰は今世での頭破七分にとどまらない。法華経にそむき、三世十方の仏に敵対する行為であるから「後生には大無間地獄に堕つ」こととなるのです。
したがって、鬼神のとるべき道は、鬼子母神や十羅刹等に従い、法華経の行者を守護する働きをあらわすことである。つまり、病気で苦しめるのを直ちにやめて、時光の病気を癒し、むしろ、時光を今後は守る役になっていくことです。そうすれば、鬼神自身、餓鬼道の苦から救われることになるのです。これを「あなかしこ・あなかしこ、此の人のやまい(病)を忽になを(治)して・かへりてまほり(守)となりて鬼道の大苦をぬくべきか」と仰せられているのです。
『なにとなくとも一度の死は一定(いちじょう)なり。
いろ(色)ばしあく(悪)して人にわらわ(笑)れさせ給うなよ』
(兄弟抄 九八二頁)
【現代語訳】
『これということがなくても、一度は死ぬことは、しかと定まっている。したがって、卑怯な態度をとって、人に笑われてはならない』
生きとし生けるものが、もっとも恐れるのは死であります。これは、あらゆる生物の、生存本能ともいえましょう。
だが、いかなる人も、動物も、虫も、さらには植物も、永遠に死なないものは絶対にありません。したがって、大事なことは、死から逃れようと努力することよりも、いかに人生を生きて死を迎えるかということです。
この、人生いかに生くべきかの根本問題に明快な答えを出したものが仏法であります。ゆえに最高哲理の妙法を受持し、一歩も退くことなく、妙法の信心を貫き通した人生が、最高に意義ある人生であるといえます。
むしろ、死を賭(と)し、生涯をかけて求めるべきものが妙法であり、過去の真実の哲人、賢人が求め抜いたものも、また、妙法であります。この折角の妙法の珠を抱きながら、目先の利益や命の惜しさに負けて、妙法の珠を捨てることは、本末転倒であり、愚かしい行為といえましょう。これを「いろ(色)ばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ」と申されているのです。
『人は臨終の時、地獄に墜つる者は黒色となる上、其の身重き事千引(ちびき)の石(いわ)の如し。善人は設(たと)ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。 又軽(かろ)き事鵞毛(がもう)の如し、軟(やわ)らかなる事兜羅綿(とろめん)の如し』
(千日尼御前御返事 一二九〇頁)
【現代語訳】
「人は臨終の時に地獄に堕ちる者は色が黒くなるうえ、その身体の重いことは、千引(ちびき)の石(いわ)のようなものである。善人はたとえ七尺八尺の女人であっても、色の黒い者であっても、臨終には色が変わって白くなる。また軽いことは鵞毛(がもう)のようであり、やわらかなことは兜羅緜(とろめん)のようである」
千引(ちびき)の石(いわ)
千引の岩とも書く。綱で千人がかりで引くほどの大きな岩のこと。古事記上に「爾(ここ)に千引の石を其の黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)えて……」とある。非常に重たいもののたとえとして用いられる。
兜羅緜(とろめん)
兜羅とは、梵語トゥーラ(Tūla)の音写で、綿花の意。綿糸にウサギの毛をまぜて織った織物。後には毛をまじえずに織った。ねずみ色、藤色、薄柿色などのものが多い。非常に柔らかいもののたとえとして用いられるようになった。往生要集上に「微妙(みみょう)にして柔軟(やわらか)きこと、兜羅綿の如し」とある。
仏法においては三世にわたる生命の因果を説いています。
生命は今世限りで終わるものではなく、中有(ちゅうう)を経て来世に引き継がれるものとした。
人生がゼロから始まるとすれば、生まれながらの差のあることは、不合理という以外にありません。また生前の行為が死とともに終わるのであれば、いかなる欲望を押える必要もなくなるでしょう。仏法ではそれらの業はそのまま来世に引き継がれ、断絶はないとしています。したがって臨終の姿は来たるべき生の暗示でもあります。苦悶に沈みつつ臨終を迎えた生命は地獄に堕ちることが疑いないとされ、安らかな臨終は仏の住む国土に生ずる相であると考えたのであります。
臨終の際にあって、恐怖に脅え、苦しみに体を硬直させて死んでいく姿は、まさに堕地獄以外の何物でもありません。その人の生命は底知れぬ暗黒の淵に沈む重さを感ぜずにはいられないはずです。「臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上(うえ)、其の身重き事千引(ちびき)の石(いわ)の如し」と表現されているのは、そうした生命状態をいわれたものと考えられます。
それに対し法華経を持(たも)つ人が「臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛(がもう)の如し、輭(やわらか)なる事兜羅緜(とろめん)の如し」とあるのは、平安な臨終の生命であります。
人生の願業を成し遂げ、懸命に我が人生を進み、後悔なく人生を終える姿、また次の人生へ向かう生命は、明澄な平安さと、上方に浮かんでいくような軽さを覚えるにちがいありません。臨終を正念で終える人生は、最高の幸福な境涯であるといっても過言ではありません。
『人の寿命(いのち)は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬(なおたと)へにあらず。かしこ(賢)きも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先ず臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし』
(妙法尼御前御返事 一四八二頁)
【現代語訳】
「人の寿命は無常である。はく息はすう息をまつことなく出てゆく。風の前の露すら、なおたとえることができないほどはかない。かしこい者もおろかな者も、年おいた者も若い者もさだめがたいのが人の世の習いである。だからまず、死に臨んで悔いない覚悟をもつことをしっかり習いさだめて、それからのちに他のことを習うべきだ、と願ったのである」
この御文は、かけがえのない〝今世の生〟を生きるあり方を教えられたものと拝します。人生においてもっとも大事なことは、なんのために生きるかという目的観であり、また、いかに生きるかという生き方の問題です。この根本義をはずして、いかに他事に心を奪われても、しょせん、そこには空(むな)しさしか残らないでしょう。
人間としての正しいあり方は、死を見つめ、生を緊張して生きる求道の厳粛な姿勢を失ってはなりません。そのためには「臨終只今にありと解(さと)りて、信心を致して」(生死一大事血脈抄・一三三七㌻)の御金言のごとく、只今に全生命をかけ、瞬間瞬間、一日一日を懸命に生き、広宣流布に、一生成仏へ、わが生命を燃焼させていくことが大切なのです。
『いかなる事ぞ臨終に南無妙法蓮華経と唱えさせ給ひける事は、一眼(いちげん)のかめ(亀)の浮木(ふもく)の穴に入り、天より下すいと(糸)との大地のはり(針)の穴に入るがごとし。あらふしぎあらふしぎ』
(上野殿御返事 一二一八頁)
【現代語訳】
「南無妙法蓮華経と唱えられたということは、千年に一度しか浮かび上がってこない伝説の一眼の亀が浮木にたまたま出会って、浮き木の穴に入ることができたようなものであり、天から下した糸が、大地に立ててある針の穴に通ったようなものである」
一眼の亀
仏や仏の説く正法に巡り合うことがいかに難しいかを示す譬えに登場する亀。法華経妙荘厳王本事品第27には「仏に巡り合うことが難しいのは、一眼の亀が浮き木の穴に巡り合うのと変わらない」(法華経657㌻、趣意)とある。また「松野殿後家尼御前御返事」に、次のように仰せである
深海の底に一匹の亀がいた。眼は一つしかなく、手足もひれもない。腹は鉄が焼けるように熱く、背の甲羅は雪山(ヒマラヤ)のように冷たい。1000年に一度しか海面に上がることができない。この亀の願いは海面で栴檀の浮き木に巡り合い、その木の穴に入って腹を冷やし、甲羅を日光で温めることである。しかし、亀の体にあった穴がある栴檀の浮き木に巡り合う可能性はないに等しい。もし巡り合ったとしても亀は浮き木を正しく追うことができない。人々が法華経に巡り合い受持していくことは、この一眼の亀が栴檀の浮き木に巡り合うのと同じくらい難しいと説かれる。この話は、盲亀浮木の譬えともいう。
『一生が間賢なりし人も一言に身をほろ(亡)ぼすにや』
(兄弟抄 九八三頁)
【現代語訳】
「一生涯、賢明に事を処して波風おこすことなく、順調に人生をすごしてきた人でも、最後期のただ一言が仇となって身を亡ぼし、永年の功を台無しとしてしまうことがある。」
此の御聖訓本文はこのお手紙の例え話の一説です。
「古代中国に伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)という、ともに優れた人格者の賢人兄弟がいました。二人は周(しゅう)王朝に使えていたのですが訳あって野(や)に下(くだ)り、山奥で食うや食わずの隠遁(いんとん)生活を送っていました。しかし、天は賢人兄弟を見捨てず、白鹿となって二人の許(もと)に現れ、乳を飲ませて命を守っていたのです。しかし叔斉の一言が天の怒りを買ってしまいます。「この白鹿を殺して肉を食べよう」と言った途端、白鹿は天に帰り、結局兄弟は餓死(がし)して草むらに屍(しかばね)となってしまった、という故事に拠(よ)っています。
大聖人はこの故事(こじ)をもって池上兄弟に短慮(たんりょ)を戒(いまし)め、法華信仰の不退転(ふたいてん)を説かれました。
結果、年月はかかりましたが勘当は解かれ、さらに父康光も法華宗信者になったのです。
『千年のかる(苅)かや(茅)も一時にはひ(灰)となる。百年の功も一言にやぶれ候は法のこと(理)わりなり』
(兵衛志殿御返事 一一八三頁)
【現代語訳】
これは、仏道修行の要諦(ようてい)を説かれたものです。
「千年もたった苅茅(かるかや)でも、いったん火にあえば一時に灰となり、百年かかって立てた功労も、わずか一言で徒労に帰してしまう」
なにごとにおいても、一つのことを成就するためには、最後まで全うしなければ、意味がありません。家を建てる場合でも、九分通りまでつくっても、壁を塗るとか、畳を入れるとか、最後の仕上げをしなければ人は住めません。
いわんや、仏法は、一生成仏という、人生の根本的建設の戦いである。建設中の途上において、それをやめたならば、それまでの努力は水泡に帰す以外にありません。
仏法は勝負であり、その勝負は最後で決まります。それが、仏法の厳しさであり、人生の厳しさでもあります。たとえ、百のうち、九十二まで、力を注いでも、あと八を手を抜き、あるいは逃避していくならば、それは仏法の実銭とはいえないのです。そこに着目し、最後の画竜点晴(がりょうてんせい)に総力を注ぐとき、必ずや、つねに新しい光輝ある未来を開拓していけることは必定であります。
この大聖人様の書状を拝し、文面は厳しくも、深い御ご慈じ悲ひと御期待を感じた池上兄弟の弟宗長は、自らの信心を深く省かえりみ、強い決意を奮ふるい起こしました。そして、迷いを捨て、決然として父を諌めたのです。
父康光もこれには窮したことでしょう。息子を二人までも失うにしのびなかったのか、翌弘安元(一二七八)年春、再度の勘当も解とかれ、ほどなくして、兄弟は、二十年来信心に反対し続けてきた父を、ついに大聖人様に帰依せしめることができたのです。
私たちも池上兄弟の信心を学び、勝妙なる妙法を試みに実践し、御命題達成へ向けて、三障四魔の用(はたらき)に一歩も退くことなく、さらに折伏に精進してまいりましょう。
大白法 平成24年11月1日刊(第848号)より一部転載
『蔵(くら)の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。この御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし』
(崇峻天皇御書 一一七三頁)
【現代語訳】
「蔵の財よりも身の財がすぐれており、身の財よりも心の財が第一である。この手紙を御覧になられてからは、心の財を積んでいきなさい」
蔵の財となる財産・財宝・家財よりも、身の財はすぐれており、身の財よりも正しい仏法を求める心、御本尊様を慕い渇仰する心である信心が一番大事であると御教示です。
「心の財」を積むとは、無上道を得るための信心修行を怠ることなく一生懸命に勤めることであり、勤行唱題と折伏に精進することです。
具体的な心の財とは、正しい仏法を学ぶことで知ることができます。信心修行で積むことができる無上の財を心の財といい、六根清浄の功徳、成仏につながる尊い心(求道心・慈悲)であり、心の財を寺院へ参詣して積むことができます。
自ら行動を起こして率先し寺院へ参詣して心の財を積むことが非常に大事であり、心の財を多くの人に積むことができるよう布教活動の折伏があります。
蔵の財よりも心の財が第一となり、心の財を積むための根源が御本尊様です。
つまり御本尊様が一番最高の財となり、御本尊様と向きあう時間を多く持つことが心の財を積むことになります。
『善なれども大善をやぶる(破)小善は悪道に堕つるなるべし』
(南条兵衛七郎殿御書 三二三頁)
【現代語訳】
「法華経の大善を破る小善、すなわち爾前迹門の善は小善であり、真実の善ではなく悪であり、地獄に堕ちる」と厳しく仰せられているのであります。
つまり、法華経の敵も責めない善は本当の善ではなく、本当の大善とは、自らが本因下種の妙法を信受し、邪義邪宗の謗法の害毒によって苦しむ多くの人々を救う、すなわち折伏を行ずる自行化他の信心に励むこと、これが大善中の大善であると仰せられているのであります。
「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益有るべき時なり」(同 一八一八㌻)
との御金言を心肝に染め、いよいよ信心強盛に折伏誓願達成へ向けて精進致しましょう。
(大白法・平成31年3月16日刊(第1001号)より一部転載)
『されば法は必ず国をかがみ(鑑)て弘むべし。彼の国によ(良)かりし法なれば必ず此の国によかるべしとは思うべからず』
(南条兵衛七郎殿御書 三二四頁)
【現代語訳】
「されば、法は必ず国を考えて弘めるべきである。かの国に適した法であれば、必ずこの国にも適すると思ってはならない」
国を知らなければならない。国に随って人の心も異なるのである。たとえば揚子江南岸の橘を淮河(わいが)の北岸に移せば枳(からたち)となる。心なき草木ですら所によって異なるのである。まして心のあるものが、どうして所によって異ならないことがあろう。
されば玄奘三蔵の大唐西域記にインドの国々のことを多く記しているが、国の慣習として不孝な国もあり、孝心の厚い国もあり、瞋恚(しんに)の心の盛んな国もあり、愚かさの多い国もあり、もっぱら小乗経を用いる国もあり、もっぱら大乗経を用いる国もあり、大乗経・小乗経を兼学する国もあるようである。またもっぱら殺生の国、もっぱら盗みの国、また穀の多い国、粟等の多い国など、さまざまである。
南条兵衛七郎殿は、執権・北条家の御家人であり、駿河国富士郡上方の荘上野郷(現在の大石寺周辺)の地頭です。当時の慣例にしたがって、上野殿と呼称されました。総本山大石寺大檀那・南条時光殿の父に当たる人で、生年は不明ですが、文永二年(一二六五)三月八日に逝去、法号を行増といいます。このとき、時光殿はわずか七歳の少年でした。